「禅問答にわかりやすい答えはない。だからおもしろい」。そう語るのは、弘前大学教育学部教授の山田史生氏だ。いまやグローバルなものとなった禅のもつ魅力を、もっとも見事にあらわした大古典、『臨済録』をわかりやすく解説した『クセになる禅問答』が3月7日に刊行される。この本は「答えのない」禅問答によって、頭で考えるだけでは手に入らない、飛躍的な発想力を磨けるこれまでにない一冊になっている。今回は、本書の刊行にあたり、その一部を特別に公開する。

クセになる禅問答Photo: Adobe Stock

どちらが主で、どちらが客か

 ある日、東の僧堂の首座(しゅそ)と西の僧堂の首座とがでくわし、ふたり同時に大声でどなりあう。
 僧が臨済(りんざい)にたずねる「いったい主と客という区別はあるのでしょうか」。
「主と客とはハッキリしている」
 臨済はさらに「皆の衆、わしのいう主と客との意味がわかりたければ、東西の堂のふたりの首座にたずねるがよい」というと、すぐに高座をおりる。

首座:禅宗の寺院における衆僧の首位にあるもの。修行者を指導するポジションにある僧。

ふたり同時にどなりあう

 東の僧堂と西の僧堂と、それぞれの首座がバッタリとでくわし、ふたり同時に大声でどなる。当時、世間では「臨済の喝」といえば知らないものがないくらい有名だった。首座たちは臨済のマネをする。わしらのお師匠さんの得意技はこれだよね、と。

 ふたりの首座がまったく同時にどなりあうのをみた僧が、「どっちが主で、どっちが客でしょうか」とたずねる。

 臨済は「主と客とはハッキリしている」といって平然としている。それだけで、どちらが主だとも客だともいわない。
「主と客とはハッキリしている」と断言しているのだから、もう答えている。ところが僧はいまひとつ釈然としない顔。臨済は「ふたりの首座にたずねてみよ」とうながす。

 たがいに大声でどなりあうとき、みずから主体としてハツラツとはたらいていれば、そのものは主だ。そうでなければ、そのものは客となっている。
 意識と身体とのあいだに葛藤があるとき、主体性はひどく動揺する。このふたつが調和しつつはたらいているとき、はじめて主体性はハツラツとかがやく。

 ひとくちに自己認識といっても、そこには「意識的な主体性」と「無意識的な身体の主体性」という二重性がからんでいる。
 どういうふうに自己を認識しているか、ふたりの首座にたずねてみよ、と臨済はいう。