「みずから」やるとは
自分がやることと、自分を意識することとは、およそ関係がない。そのことは「みずから」やるといえる場合といえない場合とをくらべてみればわかる。
ケーキを食べるとき、だれかに口のなかにケーキを押しこまれるなら、みずから食べるとはいえない。催眠術をかけられてケーキを食べるのも同様である。
ふつうなにかをやるというのは、なにかが積極的に起こっていることを基準にする。だが「みずから」やることを考えるときは、なにも異常なことが起こっていないという消極的なことを基準にする。いかにも自分というものを意識していなければならないような気もするが、それは「みずから」やるかどうかということとは関係がない。
催眠術をかけられてケーキを食べているとき、「自分はいまケーキを食べている」といくら意識したとしても、みずからケーキを食べるとはいえない。
自分を意識することは、みずからやることの基準にならない。意識する自分は、みずからの行為の真の主体ではない。
自己の構造は二重になっている。まずは意識的な主観という主体性をささえながら、より根源的にはたらいている身体的な主体によって行為がおこなわれる。みずからの行為を意識するよりまえに、すでに身体的な主体性はうごいている。意識としての自分はそれをただ追認するだけ。
意識以前にはたらいている無位の真人(身体的主体性)は、すでに表情や態度にあらわれている。「隠すより現る」という言葉もあるように、隠そうとすればするほど、かえって他人にバレバレだったりする。
(本稿は、山田史生著『クセになる禅問答』を再構成したものです)
山田史生(やまだ・ふみお)
中国思想研究者/弘前大学教育学部教授
1959年、福井県生まれ。東北大学文学部卒業。同大学大学院修了。博士(文学)。専門は中国古典の思想、哲学。趣味は囲碁。特技は尺八。妻がひとり。娘がひとり。
著書に『日曜日に読む「荘子」』『下から目線で読む「孫子」』(以上、ちくま新書)、『受験生のための一夜漬け漢文教室』(ちくまプリマー新書)、『門無き門より入れ 精読「無門関」』(大蔵出版)、『中国古典「名言 200」』(三笠書房)、『脱世間のすすめ 漢文に学ぶもう少し楽に生きるヒント』(祥伝社)、『もしも老子に出会ったら』『絶望しそうになったら道元を読め!』『はじめての「禅問答」』(以上、光文社新書)、『全訳論語』『禅問答100撰』(以上、東京堂出版)、『龐居士の語録 さあこい!禅問答』(東方書店)など。