レースでは燃料電池車は不在
水素は気体から液体へ
三重県鈴鹿サーキットで「ENEOS スーパー耐久シリーズ2023 Powerd by Hankook」(第1戦:2023年3月19日決勝)が開幕した。今シーズンも昨シーズンから引き続き、自動車メーカー各社が、カーボンニュートラル燃料、次世代ディーゼル燃料、そして水素など、さまざまな次世代燃料を使うマシンを投入する。
同シリーズは、主に高度な運転技術を持つアマチュアレーサー(ジェントルマンレーサー)やセミプロレーサー、さらに現役プロレーサーやプロレーサーのOBなどが、エンジン排気量別やクルマの規定別で設定されたさまざまなクラスに、量産車をベースとしたレースマシンを使い競技を行う。決勝は、3時間、5時間、そして富士スピードウェイで開催される24時間レースなどの耐久レースだ。
その中で、トヨタ自動車、スバル、マツダそれぞれの本社が直轄運営するチームは、次世代車の研究開発を目的としたST-Qクラスに参戦している。
また、自動車メーカー各社の社長や役員同士がメディア関係者を含めて、次世代車燃料開発の現状と今後について意見交換を行う貴重な場にもなっている。
さらには、レース観戦者向けに、自動車メーカーとエネルギー関連企業が共同で次世代燃料について楽しく学べる場を用意し、そこに最前線で研究開発に携わる企業関係者が、子どもから大人まで広い世代に対して、次世代燃料について分かりやすく説明してくれる。
今回の鈴鹿サーキットのグランドスタンド裏には、さまざまな次世代燃料車が展示され、その中には当然、燃料電池車であるトヨタ「MIRAI」があった。MIRAIからは外部給電装置を介して、イベントで使用するパソコンなどの電源として使用していた。こうした燃料電池車を電源として活用する風景は、台風などの災害時対応として、実際に活用された事例がある。
一方で、サーキットのピットや本コースに目を移すと、燃料電池レースマシンの姿はない。その代わりに、燃料電池車と同じ水素を燃料として使うレースマシンがある。
正確に表現すれば、本来は出場予定だった、トヨタ本社統括チームであるROOKIE レーシングの「ORC ROOKIE GR カローラH2コンセプト」(通称:水素エンジンカローラ)は今回、レースを欠場した。
水素エンジンカローラは、21年5月にレースデビューし、これまでスーパー耐久シリーズに参戦を続け、技術進化を見せてきた。トヨタ自動車の社長(当時。現会長)である豊田章男氏が「モリゾウ」というニックネームで自ら水素エンジンカローラのドライバーとしてレース参戦することで、水素エンジンカローラはメディアから大きな注目を浴びてきた。
今シーズンは、これまでの気体水素に代わり、液体水素を搭載した仕様に変更されたが、そのテスト走行中に一部不具合が生じたため、その改善を行うために同マシンのデビューは次戦5月の富士24時間へ持ちこされた。
その経緯や今シーズンに導入する液体水素に関して、鈴鹿サーキット内で、トヨタの佐藤恒治執行役員(当時。現社長)、川崎重工業の橋本康彦社長、そして岩谷産業の間島寛社長がそろって記者会見した。
彼らのコメントは主に、気体水素と比較した場合の液体水素の優位性を示すものだった。
具体的には、水素を「はこぶ」過程で、マイナス253度で水素を液化することで気体に比べて大量に輸送することが可能だ。川崎重工では国の支援を受け、オーストラリアで採掘される褐炭を活用した水素を液化し、日本に運ぶ計画を立てている。そのために、液化水素運搬船「すいそ ふろんてぃあ」を建造。さらに、兵庫県神戸市沖合の神戸空港島の1万平米の敷地に液化水素受入基地を設置している。
川崎重工の水素関連部門の幹部によると、「低温で液化するという点で、液体水素はLNG(液化天然ガス)での技術的な知見がかなり応用できる」という。
同社では近い将来、全長300メートル級で4万m3の液化水素タンク4基を搭載する大型液化水素運搬船を実現すべく、その研究開発に取り組んでいる。
また、岩谷産業の資料では、「水素ガスを液化すると体積が800分の1に縮小でき、またボンベやトレーラーで流通している圧縮水素ガス(気体水素)は15~20MPaの圧力で約150~200分の1に圧縮。よって、液体水素にすれば同じ容量の容器に圧縮水素(気体)の4倍以上の量を計算上では充填できる」と説明している。
こうした考え方のもと、スーパー耐久シリーズ向けでも、これまでの4分の1規模に縮小した液体水素充填システムをピットに設置する計画だという。
レースマシンの側では、液体水素マシンはこれまで開発してきた気体水素の技術のほとんどが応用できるという。開発担当エンジニアに直接話を聞いたが、「車載の水素タンクは液化水素対応に変更し、そこからエンジンに至るまで、どのように気化させるかが課題だ。気化した水素を使うという点では、基本的に水素エンジン自体はこれまでと大きく変わらない」と説明する。
このように、エネルギー供給側、または自動車メーカー側の、技術面や事業面での観点から見れば、液体水素は気体水素に比べてメリットが大きい。
だが、自動車のユーザーの視点で見ると、「気体ではなく液体になったら燃料電池車は将来どうなるのか?」「水素ステーションが今後、液体水素に転換したら、気体水素を使う既存の燃料電池車ユーザーには、なんらかの支援策が講じられるのか?」「液体水素への転換はいつ頃なのか?」といった、将来に向けた疑問を抱く人が少なくないはずだ。
政府の水素戦略の変遷
「死の谷」越えず?
話をさらに先に進める前に、ここで、燃料電池車の量産に向けたこれまでの流れを簡単に振り返っておきたい。
90年代から国内外で本格的な燃料電池車の試作が始まり、2000年代に入ると米カリフォルニア州環境局が中心となり、日米欧の自動車メーカーが共同で公道実証試験を行う、CaFCP(カリフォルニア・フューエル・セル・パートナーシップ)の施設が活用されるようになる。
日本では02年度から、水素の製造方式や、リアルワールドでの燃料電池車の性能評価等を行う、水素・燃料電池実証プロジェクト(JHFC)が始まる。
当時の小泉純一郎首相らが、首相官邸を起点に燃料電池車の同乗試乗を行うなど、「燃料電池車は、日本が誇る世界最先端の技術」として将来を有望視された。
だが、本格的な量産、そして普及への道筋がなかなか描けず、いわゆる『死の谷』を越えることができなかった。
そうした中、09年には家庭用の燃料電池を量産、次いで14年に乗用車として初の燃料電池量産車のトヨタ「MIRAI」、追ってホンダが「FCXクラリティ」を発売し、国は水素インフラ整備に向けて積極的に動き出したことで、自動車産業界では「やっと、死の谷を越えたのではないか?」という見方が広まった。
さらに、政府は17年12月に「水素基本戦略」を発表し、国内で燃料電池車の普及台数を20年に4万台、25年に20万台、そして30年に80万台を目指すとした。それに伴い水素ステーション数も20年に160カ所、25年に320カ所、そして30年には900カ所相当とし、将来目指すべき姿として、「収益性の向上によるガソリンスタンドの代替」と位置付けた。
18年3月には、水素ステーションの整備を加速させるため、自動車メーカーやインフラ事業者による日本水素ステーションネットワーク合同会社(JHyM)も設立してる。
こうして燃料電池車の普及については、国やメーカーが燃料電池バスと燃料電池フォークリフトと共に、地道な普及活動を続けてきた。
このあたりまでは、自動車ユーザーを含めた消費者は、「未来のクルマと思ってきた燃料電池車が、少しずつだが、身近な存在になっていきそうだ」というイメージを持ちやすかったと思う。
それが、20年代に入ると、自動車メーカーや国とユーザーの間で、燃料電池車に対する意識のギャップが生じ始める。
予期せぬ二つの動き
ESG投資とエネルギー安全保障
意識のギャップの原因は、大きく二つあると筆者は見る。
一つは、10年代末から世界に吹き荒れたESG投資だ。従来の財務情報だけではなく、環境・ソーシャル(社会性)・ガバナンス(企業統治)を重視した投資のことだ。
ESG投資を重要視し、欧州連合(EU)が19年に欧州グリーンディール政策を立ち上げる。この中の政策パッケージ「Fit for 55」(2030年までに温室効果ガス排出量を1990年比で55%以上削減するというもの)で、35年以降は欧州域内で発売される新車100%が事実上、EV(電気自動車)または燃料電池車となることで、欧州各国が協議を進めた。
直近(23年3月末)には、ドイツの反対により、35年以降に再生可能エネルギー由来の合成燃料であるe‐フューエルを使うエンジン車の利用も認めることで最終調整に入ったと報じられている。
いずれにしても、Fit for 55の欧州自動車メーカーへの影響は極めて大きく、欧州メーカーでは、スウェーデンのボルボやEU非加盟国の英国ジャガーが早期にEV専業メーカーに転身することを明らかにした。また、世界自動車産業界のけん引役であるドイツのメルセデス・ベンツも、「社会環境が整えば30年以降に新たに発売するモデルは全てEVとする事業方針」を公表するに至った。
こうした欧州連合での動きをけん制するかのように、アメリカのバイデン政権は22年8月に電動化を推進する大統領令を発令し、さらには対中政策の一環という色合いも強いIRA(インフレ抑制法)を施行した。
このような欧米での政治主導による急激なEVシフトに対して、日本の自動車産業界は21年から、「EVの重要性は十分に考慮するが、カーボンニュートラルには多様な選択肢があるべきだ」との姿勢を示すようになる。
この中で、トヨタがEV量産化を前倒しするEV新戦略を公表。また燃料電池の本体を鉄道、船舶、トラック、そして発電機など多様な産業向けに外販する計画も発表した。
ホンダも40年までにグローバルで新車100%をEVまたは燃料電池車にするとし、GMと共同開発した燃料電池を商用車、定置型電源、建設機関などに段階的に外販を進め、将来的には宇宙開発での活用を視野に入れていることを公表した。
そして、前述のスーパー耐久シリーズを使い、水素やカーボンニュートラル燃料を内燃機関で活用する研究開発について、各メーカーが積極的に広報活動するようになってきたのだ。
消費者としては「燃料電池は、B2B(事業者間取引)向けが主流になるのか?」、または「水素燃料車と燃料電池車、どっちが将来有望なのか?」といった感想を持つ中で、「燃料電池車の現在位置」が分かりにくくなってきているのではないだろうか。
そうした中で、今年のスーパー耐久シリーズで、「将来は液体水素燃料車」といった流れがいきなり出てきた。消費者としては燃料電池車の立ち位置が、さらに分かりにくくなってしまうかもしれない。
もう1点は、ロシアのウクライナ侵攻によるエネルギー安全保障の問題と、それとも深く関係するGX(グリーントランスフォーメーション)による日本の産業競争力強化だ。
経済産業省は23年3月6日、約1年半ぶりに「水素・燃料電池戦略協議会」を開催した。
社会背景について「ウクライナ情勢を契機に世界のエネルギー事業は一変した」として、「我が国としての水素に関する戦略を見直すべき時期に来ている」と言い切る。
その上で、「23年2月10日に閣議決定した『GX実現に向けた基本方針』を受け、規定・支援一体型での包括的な制度整備を早期に進めるため、『水素基本戦略(17年12月閣議決定)』の改訂に向けた議論を進める」としている。
こうした経産省の資料を見た筆者の印象は、水素が日本にとってこれまでになく「おおごと」になっており、そのなかで、日本の水素戦略の主役が、燃料電池車から火力発電向けの燃料としての用途に変わったと感じる。そうした大きな枠組みの中で、燃料電池は乗用車向けのみならず産業機器分野に広がるという将来像を国が描いている。
このような国の方針転換について、前述の鈴鹿サーキットで水素やエネルギー関連事業者と意見交換した際にも、筆者と同じように「燃料電池車の現在の立ち位置が、消費者に分かりにくい」という感覚を持っている人が少なくなかった。
こうした世界市場におけるマクロな動きを踏まえた国や産業界の燃料電池車や自動車における水素利用の意識が、自動車販売店や消費者とは「別の次元」にあるように感じる。
そのため、両者の間に燃料電池車に対する意識のギャップが生まれてしまうのは、致し方ないのかもしれない。
こうして見てきたように、国や世界の動きを俯瞰(ふかん)すれば、日本において水素を使うモビリティーの重要性は今後、ますます高まる可能性は十分にあると思う。
その上で、国や自動車メーカー各社には「燃料電池車の現在位置と、これからの方向性」について、さらにもう一歩前に出て、消費者に分かりやすく、かつ持続的に丁寧な説明をしてほしいところだ。