「イギリス」や「ジャパン」が
ポルトガル語に由来する理由

 イギリスという日本語は、ポルトガル語でイングランドを形容詞でイングレスと呼ぶことに由来する。日本を英語で「ジャパン」というのも、ポルトガル語で「ハポン(JAPON)」と言うのを、英語読みしたものだ。

 どうしてポルトガル語なのかといえば、極東とヨーロッパを結び付けたのがポルトガル人だったからである。大航海時代が始まったのは、オスマン帝国がビザンツ帝国を滅ばしたからでなく、イベリア半島でのイスラム教徒に対するレコンキスタ(国土再征服)がきっかけだ。

 ここは、ゲルマン族の一派である武骨な西ゴート族がトレドを首都とした王国を建てて支配していたが、イスラムが8世紀にアフリカから侵入し、アンダルシア地方を本拠にほとんど全土を支配した。

 だが、722年に北部山岳地帯アストリアの騎士がイスラム軍を撃退したことからレコンキスタが始まり、15世紀には、カスティリア、アラゴンとポルトガルに集約された。カスティリアは最後のイスラム王国グラナダを攻め、アラゴンは地中海でオスマン帝国と戦い、ポルトガルのエンリケ航海王子は、イスラムが支配するアフリカのセウタを攻略し、大西洋岸の南下を試みた。

 そして、バーソロミュー・ディアスが喜望峰を発見したのち、バスコ・ダ・ガマが南インドに到達したのが1498年である。さらに、インドのゴア、マラッカと進み、日本にも鉄砲とキリスト教を持ってきてアジア市場を独占した(1540年代)。一方、カスティリアとアラゴンが統一されたスペインが、コロンブスを支援して西回りでアメリカ大陸やフィリピンを領有した。

 スペインから独立したオランダはポルトガルの勢力圏を脅かし、海洋王国としての発展期を迎えたイギリスも登場したというのが、関ヶ原の戦い前後の状況だった。

 信長・秀吉と同時代のスペイン王フェリペ2世は、1581年にポルトガル王を兼ね、1584年に「天正遣欧使節」の少年たちを迎えた。

 一方、1609年にメキシコへ向かうフィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロの船が房総半島に漂着したので、駿府にあった徳川家康は帰国を援助し修好を提案した。これを受けたメキシコ副王(スペイン語で「ビレイ」という)ルイス・デ・ベラスコは、日本に感謝の使節を派遣して、フェリペ2世からの贈り物として、1573年にベルギーで製作された金の置き時計(家康の遺品として久能山東照宮にあり重要文化財)をもたらした。

 また、伊達政宗が1613年に派遣した「慶長遣欧使節」は、メキシコ回りでスペインやローマに行った。