西洋人形製造からアパート経営に

 その後ミツは別れた夫から譲り受けた、フランス人形を製造販売する会社の経営に当たる。業績はまずまず順調だったらしい。

 昭和12年(1937年)、広島藩最後の藩主だった浅野長勲(ながこと)が九十六歳で天寿を全うすると、ついに生存する最後の元大名は林忠崇一人となった。このころから、新聞や雑誌の取材の申し込みが頻繁に入るようになる。忠崇はこうした取材を受けることが満更嫌いでもなかったらしい。

 やがて戦争の気配が色濃くなってくると、西洋人形を自由に作ったり買ったりすることができなくなり、会社の業績は一気に冷え込んでしまう。そこでミツは思い切って会社を畳み、アパート経営に乗り出す。それこそが忠崇にとって終のすみかとなった東京都豊島区高田のアパートだった。

 父娘がそのアパートに転居したのは昭和15年(1940年)3月のことだった。冒頭で述べたように、忠崇はその翌年の1月22日に亡くなっている。死の瞬間、たまたま外出していたミツは立ち会えず、かつて忠崇が藩主だった時代に家老を務めていた人物の孫が看取ったという。

 こうして最後の大名――林忠崇は、徳川家を守るために命を懸けた青春時代の思い出を胸に、彼岸へと旅立ったのである。