通勤に使えない、沿線開発できない、発展しない
ピーチライナーの“三重苦”
計画では1日3万人の利用が見込まれていたピーチライナーは、実際には1日2000~3000人ほどの利用しかなかったという。最大の原因は、名古屋方面への通勤客をほとんど取り込めなかったことだ。
ピーチライナーが接続していた名古屋鉄道小牧線は、03年までは上飯田駅止まりで、名古屋市内に向かう路線に接続していなかった。市内に向かうには、地下鉄名城線・平安通駅まで1km弱歩くなどして、さらに他の路線に乗り継ぐ必要があった。要するに、通勤手段としては、あまりにも不便過ぎたのだ。
また、桃花台ニュータウンは300ヘクタールもの丘陵地を造成した街であるにもかかわらず、ピーチライナーの駅は少なく、駅への移動経路は起伏が多かった。廃止が検討され始めた頃の調査では、住民で「ピーチライナーを利用する」と回答した人はわずか6%しかいなかった。駅から遠い住人のほとんどが「移動手段はマイカー」だったという。
そして、ニュータウン計画そのものも不調だった。71年の計画発表当初は5.4万人が住むはずだったが、最盛期でも2.8万人にとどまった。石油危機(オイルショック)による景気低迷を受けて、2度にわたる大幅な計画縮小を余儀なくされたものの、83年に訂正された「計画4万人」にすら届かなかったのだ。
さらに、ピーチライナー不調の原因として「周辺自治体の無策」が挙げられる。同路線は愛知県と小牧市で300億円以上かけて建設開業したものだが、経営維持のための「次の一手」を考えていた痕跡がほとんど見当たらない。
一般的な鉄道路線なら、途中駅の土地区分を建設した上で、マンションや商業施設などを誘致して鉄道利用につなげていく。しかしピーチライナーの場合は、途中駅(東田中駅、上末駅など)の周りは土地区分が「工業地域」のままで、鉄道を利用しそうにない物流企業ばかりが誘致された。
また、鉄道を建設した愛知県も小牧市も、ピーチライナーの具体的な集客には消極的だった。沿線の小牧総合運動場や名古屋経済大学、私立誉高等学校は駅から1~3km離れていて、「どうやったら利用してくれますか?」という呼びかけが行われたのも、かなり後になってから。そして最後までバリアフリー整備ができず、高架上の駅ホームへ移動するのに階段昇降が必須のため、「高齢者の移動手段」としての存在意義は、ほぼなかったと言っていい。