子持ちとしての反発・その1
勝手なマウントは互いに取らない

 ひとつは、既婚者や子持ちの親が置かれたさんたんたる状況(不仲の夫婦のケースや政治のふがいなさ)と対比しながら語られる、自身の独身の人生の充実ぶりである。「今の時代、政治の至らなさもあってこんなに子育てがしにくい」ということが伝えられようとしているようなのだが、その過程で結婚生活や子持ちの人生を泥の舟のように言い、かつ「自分は独身子無しで幸せ」と言ってのける。カレーが好きな人に向かって「ラーメンこそ至高。カレーはおいしくないけど」と言うようなものである。そんなことを言われたら誰だって「ちょっと待て」と異論を挟みたくなる。
 
 と、こう書くと、「子を持つか否か」についての言い争いはいかにも投稿者が始めたように見えるが、俯瞰(ふかん)で見るとそうではない。これまで「子を持つべきである」という社会の“当たり前”があったからこそ、投稿者はそれを書かざるを得なかったのだろう。こうなると、言い争いを始めているのは投稿者でなく、社会の方である。
 
 これはもうニワトリが先か卵が先かという次元の話で、どちらが先かはわからないので、いったんそれとして認めるのがよろしい。そして、互いが互いを否定したり、自分の方が優れているというマウントを取り合うような生産性のないループを一度断ち切って、相手の選択にリスペクトを持ち、自分のアウトプットを謙虚に自ら監視していくべきである。
 
 そうすれば不毛な言い争いはいくらか減って、気持ちのよい愛が世の中にほんの少し増えるはずである。

反発ポイント・その2
子が生きる未来に無関心ではいられない

 当該投稿に対して、子持ち勢がどうしても反発してしまうポイントの二つ目は、子どもの将来に関して言及している箇所である。
 
 投稿者は、基本的に未来はなるようにしかならないから、未来のことを案ずるより“今”“自分”に集中して生きるべきではないか、という哲学に基づいて、今子どもを持つ親は将来子どもが増えないと困るが、「我々子無しは(子どもが増えなくても)困らない。残念ながら困らない」と刹那主義的な持論を展開する。

 つまり、今の子ども世代が大人となっている未来は大した関心事ではない、というわけである。
 
 これは、子を持つ親としては看過できない部分である。

 子が生まれて親となった以上、子への一定以上の愛情があれば、我が子は、他人によってむやみにおとしめられたり、ないがしろにされたりしてはならない聖域となる。その我が子が生きる予定の未来をどこかの大人に「知ーらない」などと言われれば、親としてはほぼ脊髄反射で「ちょっと待てー!」と声が出てしまう。そして、その自分の感情を正当化するための理論武装を施した言論を引っ提げて、議論(ともすれば単なる“言い合い”)の渦へ身を投じることになってしまう。