「バッシング一色」になったのはなぜ?
鈴木エイト氏や全国弁連に依存するマスコミ
報道をよくご覧になっている方ならばなんとなくわかるだろうが、この1年の旧統一教会報道というのは、ある一部の人たちが「情報源」となってつくられてきた側面がある。
鈴木エイト氏ら教団を追及しているジャーナリスト、そして被害者救済にあたっている紀藤正樹弁護士をはじめとした全国弁連である。
もちろん、テレビや新聞の記者たちも必死になって取材をして、独自で情報をつかもうとしている。しかし、しょせんは安倍元首相の殺害後にあわてて始めたようものなので、この問題を長年追いかけていた鈴木エイト氏や全国弁連の弁護士たちに敵わない。取材協力者の数、教団への知見など足元にも及ばない。
すると、どうなるのかというと、鈴木エイト氏や全国弁連からの情報に「依存」する。
テレビの記者やディレクターが、「すいませんけれど、こういう取材がしたいのですがインタビューできる人いませんか?」なんて協力を依頼するのだ。なぜそんなことがわかるのかというと、筆者もかつてそういう依頼をたくさん受けたからだ。
若い時、ある違法ビジネスの取材をして、週刊誌や月刊誌でルポをよく発表していた際、情報番組や報道番組からよく電話がきた。最初は「コメントをいただきたい」とか言うのだが、よくよく聞いてみると、取材VTRをつくりたいので、記事に登場をする人を紹介してほしいという。要するに、自分たちでイチから取材をするのは大変なので、手っ取り早く報道をするために「ネタ元を教えてくれ」というワケだ。
ちなみに意外に思うかもしれないが、全国紙の記者からも「取材先を教えてほしい」と連絡がちょこちょこあった。ただ、これはなにも筆者だけの話でははない。個人で特定のテーマをもって取材をしている人ならば、「同業者から取材を受ける」というのは一度や二度は必ず経験があるであろう「あるある」なのだ。
このようなマスコミの「情報を握る人」にガッツリと依存する傾向が、旧統一教会ではさらに深刻だったというのは容易に想像できよう。
安倍元首相の事件が起きるまで、国内のメディアは「旧統一教会問題」はノータッチだった。それは裏を返せば、日本国内のほとんどの報道機関が、鈴木エイト氏や全国弁連の「取材協力」や「アドバイス」なくして、この1年の旧統一教会報道は成立しなかったということだ。
同じ人たちが情報源なのだから当然、アウトプットも同じような論調になる。これが旧統一教会報道が「バッシング一色」になってしまった構造的な理由だ。
というような話をしてしまうと、「それの何が悪い!鈴木エイトさんたちの取材が絶対に正しいのだから、正しいことが広まってよかったじゃないか!」という感じで、いよいよ筆者の横っ面を引っぱたきたくなってしまう「正義の人」も多いだろうが、ちょっと冷静になって聞いていただきたい。
繰り返しになるが、筆者は今の報道が間違っているとか主張をしたいわけではない。
むしろ、このような問題を長きに渡って追い続けてきた人々の熱意や信念には尊敬しかない。筆者は「ジャーナリスト」を自分から名乗ったこともないし、この肩書きを名乗る人たちに独善的な印象しかなくてどうも苦手なのだが、鈴木エイト氏に関してはそういう印象はない。被害を訴える人々に寄り添う立派なジャーナリストだとも思う。
ただ、特定の人々が「情報源」の報道一色になっていることが、戦時中の「非国民」のように「全国民で叩いてもいい人」を生み出し、彼らを迫害するような「暴走」を招きかねないと心配をしているだけだ。