ある元信者の体験話が昔より「ハード」に?
「情報源」が偏るとよくない理由

 鈴木エイト氏や全国弁連の皆さんがお話を聞いている「情報源」のメインとなっているのは「かつて信仰をしていたけれど脱会をした人」や「信者の家族」である。つまり、「教団にネガティブな感情を持つ人」だ。

 これは当然、情報が偏ってしまう。

 企業の内部告発でもそうだが、会社を辞めた人の「告発」というのはちょっと盛られる傾向がある。例えば、ある内部告発者は、自分をクビにした経営者が憎く、退社時に社内文書を持ち出して、自分で加筆して違法な取引があったように細工をした。筆者は不審な点に気づいてその文書を用いた記事を書かなかったが、某全国紙は一面で現物を出してしまい、その企業から訴えられて負けていた。

 もちろん、大概は「情報源」にメディアをだまそうなんて悪意はない。ただ、古巣への憎悪から冷静さを失い、「悪いやつを叩くのなら多少のうそは許される」と言わんばかりに話を盛ってしまうのだ。そしてこれは、旧統一教会問題でもかなりあるのではないかと思っている。

 実は筆者は20年ほど前、ある雑誌の編集者をしていて、旧統一教会を脱会した元信者の手記を担当したことがある。その方が今回も「元信者」としてメディアの取材を受けているのだが、そこで語られる被害の内容や、教団の異常性の描写が、20年前に聞いていた話より、やや「ハード」になっていた。もちろん、同じような境遇の人の話を聞いているうちに「記憶が上書き」されたということもあるが、今の「バッシング一色」のムードに合わせている可能性もあるのではないか。

「被害者が多少話を盛って何が悪い」という意見もあるだろうが、確かに悪くない。それを精査するのはジャーナリストやメディアの仕事だ。ただ、ジャーナリストやメディアも人間なので当然、見抜けないこともあり、盛られた話を鵜呑みにした結果、偏った情報があふれてしまうこともある。

 そこで必要なのが「報道の多様性」だと個人的に思っている。

「被害者」の主張をベースにした情報が世にあふれたら、メディアは「加害者」や「組織」側の言い分もしっかりと聞いて、世に出すことで、人々に自分の頭で判断をする材料を提示するのだ。