「世界史とは、戦争の歴史です」。そう語るのは、現役東大生集団の東大カルペ・ディエムだ。全国複数の高校で学習指導を行う彼らが、「戦争」を切り口に、世界史の流れをわかりやすく解説した『東大生が教える 戦争超全史』が話題を呼んでいる。世界史、現代情勢を理解するうえで超重要な「戦争・反乱・革命・紛争」を地域別にたどった、教養にも受験にも効く一冊だ。古代の戦争からウクライナ戦争まで、約140の戦争が掲載された、まさに「全史」と呼ぶにふさわしい教養書である。今回は、本書の内容を一部抜粋しながら、楊貴妃が「国を滅ぼした美女」と言われる理由について著者に教えてもらった。

楊貴妃はなぜ「国を滅ぼした美女」と言われているのか?Photo: Adobe Stock

唐の皇帝に溺愛された楊貴妃

 みなさんは、世界三大美女の一人、楊貴妃(ようきひ)を知っていますか?

 楊貴妃は、その美貌から中国の王朝である唐を滅ぼした、「傾国の美女」として知られています。なぜ、彼女が唐を滅ぼしたと言われているのか? 今回は、『戦争超全史』でも紹介した、唐の滅亡のきっかけとなった「安史の乱」をご紹介します。

 唐の6代皇帝・玄宗の王子の妃であった楊貴妃は、絶世の美女として玄宗の目にとまり、寵姫として溺愛されるようになりました。玄宗は彼女を妃の最高位である“貴妃”の地位につけたため「楊貴妃」と呼ばれるようになったのです。

 このとき、楊貴妃に気に入られた人物がいました。それが安禄山という人物です。

 200キロを超す超肥満体だったといわれる彼を、楊貴妃は大きなおもちゃのように扱って遊び興じた、という伝承が残されています。楊貴妃に気に入られた安禄山は、楊貴妃の養子になり、節度使(唐の各地に置かれた軍を統率する司令官)となってどんどん出世していきました。

 一方、楊貴妃にうつつを抜かし、次第に政治への意欲も失っていった玄宗は、楊貴妃一族の楊国忠を重用し、次第に彼が実権を握っていくようになりました。

「安史の乱」が勃発

 その楊国忠が、力を持った安禄山を恐れて排除しようとしたことから、安禄山は唐に対してクーデタを起こしました。安禄山には、彼の両親のルーツであったソグド人、突厥人が味方となりました。また、玄宗がまったく政治をしなかったこともあり、社会不安も手伝って多数の反乱軍が安禄山側についたといわれています。

 クーデタが起きると、玄宗と楊貴妃は一時的に長安から逃げ、安禄山は洛陽で自らを大燕皇帝と名乗り、「我こそが王だ」と高らかに宣言しました。

 この混乱の中で、楊国忠と楊貴妃は責任を追及され、殺害されてしまいました。その後、安禄山は殺され、安禄山の盟友であった史思明が反乱を引き継ぎました。「安」禄山と「史」思明で「安史」の乱なのです。

 しかし、ウイグル軍の支援を受けた唐により、反乱は鎮圧されてしまいます。

安史の乱を機に、唐は衰退の一途をたどった

 なんとか反乱を収めた唐でしたが、その後、唐を支援したウイグル人が台頭し、彼らは強大な国家を形成して唐に圧力をかけ始めました。また、反乱直後の混乱の中、吐蕃(チベット)が長安を攻め落とし唐の西域を占領したことで、唐の領土は中国本土まで大きく縮小してしまいました。さらには、反乱によって国土は荒れ、人口も減少するなど、唐は大きく国力を落としてしまいます。

 国際的な繁栄を誇った唐は、この反乱を経て一転して衰退へと向かっていったのです。そのため、この反乱のきっかけをつくったとも言える楊貴妃は、「傾国の美女」と言われるようになったのでした。

東大カルペ・ディエム
現役の東大生集団。貧困家庭で週3日アルバイトをしながら合格した東大生や地方公立高校で東大模試1位になった東大生など、多くの「逆転合格」をした現役東大生が集い、全国複数の学校でワークショップや講演会を実施している。年間1000人以上の生徒に学習指導を行う。著書に『東大生が教える戦争超全史』(ダイヤモンド社)などがある。