年ごとに表情の変わる豊太閤像に対面

 信長亡き後、天下取りの中心に躍り出たのが信長の重臣だった秀吉。織田家の継承問題と領地再分配を話し合う清須会議で強い発言権を得たのをきっかけに対抗勢力に立ち向かい、ライバルだった家康にまさる勢力に。西国を次々に平定し、小田原征伐、奥州平定を経て、ついに天下統一を成し遂げた。

 秀吉生誕の地は尾張国中村里(現名古屋市中村区)。関白、太閤まで上り詰めた天下人の御神徳にあやかろうと、1885年に地元の有志によって「豊國神社」が創建された。今もなお出世、開運、勝利祈願に多くの人が訪れている。

「どうする家康」の現場を見に行く!信長・秀吉・家康の足跡をたどる名古屋旅【保存版】名古屋市内の中村公園内にある豊國神社。市営地下鉄中村公園駅を出ると、街のシンボルである中村の大鳥居が出迎えてくれる(写真/豊國神社提供)

 また、同地には小田原城攻めの凱旋(がいせん)の際に立ち寄った秀吉が、家臣の加藤清正らに命じて創建させた「常泉寺」もある。ご神体の豊太閤像は、400年前の創建時に清正が大坂城から譲り受け、年々顔が変わる不思議なお像と言われている。今の世を生きる我々には、果たしてどのような表情に映るのか。

家康が原型を作った名古屋の街を歩く

「どうする家康」の現場を見に行く!信長・秀吉・家康の足跡をたどる名古屋旅【保存版】『ハレ旅 名古屋 (ハレ旅シリーズ)』
朝日新聞出版/編著(著)
定価1,100円
(朝日新聞出版)

 秀吉の死後、関ケ原の戦いに勝利して江戸幕府を開府。戦国の世に終止符を打ったのが、言わずと知れた大河ドラマの主人公、家康だ。

 家康は1610年、「名古屋城」築城の際に、尾張の中心であった清須の町を丸ごと名古屋へ移す清須越を敢行。社寺や商家などと一緒に、町と関わる約6万とも言われる人が名古屋へと引っ越した。

 清須越に合わせ、城下町の構成も練られ、城のまわりに町人や武士が住む場所を分け振り、社寺の場所を決め、それぞれの町をつくった。名古屋城の正面(南)におかれた町は碁盤の目のように区切られた“碁盤割り”。当時の町の名は現在も通り名などに残り、名古屋の中心エリアでは碁盤割りの名残も見つけることができる。

 その名古屋城は、金鯱が輝く巨大な天守や豪華絢爛な本丸御殿、そして高い石垣と深い堀――近世の城郭築城技術のすべてが集まった名城と言われている。戦火で多くを焼失したものの、2018年に完成した本丸御殿を含めて忠実に復元されている。創建時のまま現存する隅櫓などの重要文化財も多く、見どころは尽きない。

 家康の遺品を中心に尾張徳川家が受け継いだ重要な宝物を収蔵する「徳川美術館」も見逃せない。その収蔵品はなんと約1万件!国宝「源氏物語絵巻」から武具・刀剣まで、多彩で保存状態のよい品々が、豪壮で粋な近世大名文化を伝えている。

「どうする家康」の現場を見に行く!信長・秀吉・家康の足跡をたどる名古屋旅【保存版】徳川美術館所蔵「太刀 銘 長光 名物 津田遠江長光」。鎌倉時代に鍛刀された織田信長の所持品。本能寺の変で明智光秀の手に渡った(写真/徳川美術館提供)

 美術館に隣接する「徳川園」は、尾張徳川家に伝わる池泉回遊式の日本庭園。約2万3000平方メートルもの広大な園内は、高低差のある地形や樹林を生かした四季折々の素晴らしい景色が楽しめる。

「どうする家康」の現場を見に行く!信長・秀吉・家康の足跡をたどる名古屋旅【保存版】徳川園の龍仙湖は池泉回遊式庭園の核をなす湖。水辺を海に見立てて飛び石などを配している。四季折々の自然美が楽しめるが、紅葉すると趣が増す(写真/徳川園提供)

 今の名古屋の町は、家康が原型をつくったともいえる。旅の最後は、歴史を感じながらゆっくり町を歩きたい。

(構成/生活・文化編集部 白方美樹)

AERA dot.より転載