『川角太閤記』では岐阜城で評定が行われたように記述しているが、勝家の覚書写や秀吉の書状によって清須城で開かれたことが確認できる。信憑性の高い大村由己の『豊臣記』にも、信雄や勝家も追々に軍勢を進めてきたので清須城で参会したとあり、清須で評定をしたことは確かである。

 出席者は、秀吉の書状によると、「四人宿老共」が出席したとあり、勝家のほか、秀吉、丹羽長秀、池田恒興である。堀秀政もおそらく陪席しただろう。後継者争いをした信雄・信孝兄弟は談合から除外されたともいう。

 大村由己の『総見院殿追善記』も、「柴田、羽柴、惟住、池田、この4人として天下の政道を行い、今度忠節の輩に知行を配分し分国を定め、互いに入魂すべき固めを成し、誓紙を取り交わし各帰国し畢ぬ」とある。誓紙(誓いの文書)については、秀吉の書状などからも確認できる。

 伝聞ではあるが、『多聞院日記』6月29日条には、大乗院門跡の尋憲が安土から帰国し、信孝への挨拶も上々で大慶と喜ぶ一方、信雄と信孝の意見が衝突し、軍勢が対峙したままとの情報を載せている。当時、山崎の戦いで光秀に勝利した信孝が後継者と目されていたが、名門北畠氏を継いだ兄の信雄が異を唱えていたようである。織田家督は信忠の遺児三法師(のちの秀信)に決定した。7月6日条には、「天下のことは、勝家、長秀、恒興、秀政の5人が分捕りのようになったとのことである」などと記している。

織田の領地の再分配は
秀吉の望むままの結果に

『多聞院日記』の情報を整理すると、勝家は近江国の長浜周辺の20万石(実際には北近江3郡と思われる)、堀秀政は三法師の傅役として近江のうちで20万石の直轄地を管理、丹羽長秀は近江国の高島郡と志賀郡、池田恒興は摂津国の大坂周辺、秀吉は山城・丹波両国(ただし、丹波国は秀吉の弟秀長。当時は長秀だが、以下秀長と表記する)と河内国の東部を得た。「大旨ハシハカマヽノ様也(おおむね羽柴が望んだ通りになった)」とし、下京の六条に築城し、名代は置かず、5人が異見して三法師を補佐するとのことである。「信長の子供はたくさんいるのに、誰も後継者になれなかった」とし、争乱に至ることを予想している。