1、勝家としては、秀吉と決めた約束に相違はない。
2、清須会議で決定したことが守られず、皆が不審に思っている。もともと秀吉と勝家は仲が良かったので、天下静謐のためにも腹蔵なく相談しよう。
3、勝家は、清須会議で配分された長浜城に付随する領地以外は一切取り込んでいない。
4、三法師様を岐阜城から移すことについては、信孝様にも丹羽長秀にもそのようにすることを伝えている。
5、本能寺の変後の混乱は一応は収まったが、まだまだ四方に敵がいるなかで、内輪揉めしている時ではない。上様がいなくても外敵を退治することが本筋である。上様は家康を助けるためにたびたび出馬されて武田氏を滅ぼした。北条氏は上様ご在世の時には命令を聞いていたが、変後は豹変し、家康と敵対している。織田家中が協力して北条氏を討ち果たせば、忠義であり、上様のお弔いにもなり、さらには天下の名誉である。しかし、そうしたことをせず、秀吉は自分の領地に新城(山崎城)を構築し、好き勝手に振る舞っている。これは誰を敵としての行動なのか。私(勝家)は人柄が悪い(「我人間柄悪候」)が、親しくして、上様がご苦労されて分国を治められた御仕置などを守って静穏にしていくべきところなのに、内輪揉めで敵に領国を奪われることは本意ではない。

柴田勝家ー織田軍の「総司令官」柴田勝家―織田軍の「総司令官」』(中央公論新社) 和田裕弘 著

 以上である。「我人間柄悪候」の部分は、先に記したように勝家が自分の人間性を卑下したようにも読めるが、「我人」(勝家と秀吉)の「間柄」が「悪」くなったが、親しくしていこうと呼びかけているようにも解釈できる。秀吉は本能寺の変直前の時点でも勝家配下の溝江大炊允(長澄)と連絡をとっており、勝家との関係は巷間言われているほど悪くなかったと思われる。しかし、この時点では秀吉の傍若無人な独断専行を非難し、秀吉がそういう覚悟であるなら「無念至極」と結んでおり、実際にはもはや修復不能と悟っていただろう。秀吉も10月12日付の書状で、勝家との関係修復を仲介しようという信孝の申し出を拒絶しており、対決は避けられない情勢になっていた。

 勝家が最も恐れたのは、織田家の身内同士の争いである。勝家の書状にも「結句共喰にて」滅ぶことを憂慮している。しかし、野望に燃える秀吉から見れば、現状維持派の戯言に過ぎない。

 秀吉は、清須会議で有利な状況を作り出したことで、織田家宿老の筆頭の地位はもちろん、織田家の簒奪を徐々に夢想し始めたのだろう。