宣教師の記録にも、「彼は柴田(勝家)殿、池田(信輝)ならびに丹羽五郎左衛門と共に諸国と俸禄を意のままに分け合い、信長の第三子三七殿(信孝)には従前の俸禄に加えて美濃国を与えたが、彼は天下の主君となることを望んでいたのでこれに満足しなかった」とし、「諸国の大半を我が物としたのは羽柴筑前(秀吉)殿である」と記している。

 勝家が不満だったというのは首肯できるが、山崎の戦いに参陣しなかった信長重臣で領地を獲得したのは勝家のみである。ただし、北陸からの圧力があったればこそ、山崎の決戦時に、光秀の右腕ともいうべき明智秀満を安土城に釘付けにすることに成功しており、信孝らの勝利に貢献したともいえよう。長浜城周辺を得たのは、秀吉よりも先に長浜周辺を平定していた可能性があったからだろう。

 欠国(領主不在となった国)の分配で最大の領地を得たのは秀吉であり、実質的に京都を押さえたのも大きい。清須会議が開かれたと推測されている6月27日、勝家、秀吉、恒興、長秀の4人が連署し、蒲生賦秀(氏郷)や高山右近らに領地を宛行い、京都の住人に対しては三法師を宿老として盛り立てていく旨を伝えている。また、同日付で堀秀政に三法師の直轄領の差配を命じている。勝家以外の4人は山崎の戦いで武功を挙げており、勝家としてはどうしても引け目があった。

 なお、6月26日付の滝川一益宛の秀吉書状によると、「清須城に逗留せしめ、御国の置目等申し付け候事」とあり、6月26日以前から清須会議が開かれていた可能性がある。

秀吉主導で行われた
信長の葬儀

 織田信長は天正10年(1582)6月2日、本能寺にたおれ、後継者の信忠も同時に自害したため、正当な後継者は嫡孫の三法師(3歳)となったが、信長の葬儀を主催する年齢ではなかった。葬儀を挙行するということは、後継者を意味することにもつながり、政治的な駆け引きがあったものと思われる。信長の葬儀は、10月15日、羽柴秀吉が主導して京都の大徳寺で挙行された。名代を争った信雄や信孝、柴田勝家の動向もはっきりしない。彼らが葬儀についてどのように考えていたのかは確認できないが、秀吉の言い訳が伝わっている。