2022年、安倍元首相銃撃事件をきっかけに旧統一教会問題がクローズアップされ、「宗教2世」をめぐる悲惨な現実が明るみになった。親からの虐待、過度な献金による貧困、ネグレクトといった問題解決は緒についたばかりだ。本連載では『宗教2世サバイバルガイド』の著者である正木伸城氏が、「宗教2世」と関わりの深い有識者・当事者などに取材し、今後の宗教2世問題を議論する。第3回は、宗教社会学者・塚田穂高さんだ。宗教教育のあり方等について意見を伺った。

受験生へのお守りのプレゼントが地雷に! 宗教2世を傷つける「無自覚な宗教性」Photo:AdobeStock

教育現場で宗教2世の“禁忌”と
出合った時に、教師はどうすべきか

――塚田さんの論稿「学校現場で必要な宗教上の配慮について知っておきたいこと―多文化共生・自文化理解・教育の環境づくり―」(『「人間力」を育てる―上越教育大学からの提言6―』所収、上越教育大学、2022年)を読みました。

塚田穂高(以下、塚田) ありがとうございます。あれは、子どもたちへの宗教教育をどう行うかというよりは、教師や学校側が押さえておくべきことは何かという視点で書いたものです。

 たとえばイスラム教徒は、豚肉を食べることを禁じられています。イスラム教的にOKなものをハラル(ハラール)と呼びますが、彼らにとっては学校給食も当然、ハラルでなければなりません。もし、教室にイスラム教徒の子がいれば、学校側は、食べられるメニューのみを彼らに食べてもらうか、弁当を持参してもらうか、ハラル対応の代替給食を用意するといったかたちを取った方が良いでしょう。

受験生へのお守りのプレゼントが地雷に! 宗教2世を傷つける「無自覚な宗教性」塚田穂高
1980年、長野市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程(宗教学宗教史学)を修了。博士(文学)。国際宗教研究所 宗教情報リサーチセンター研究員、國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所助教を経て、現職。専門は宗教社会学で、近現代日本の宗教運動・思想・文化、新宗教運動、宗教と政治、カルト問題、宗教と教育、「宗教2世」問題などについて研究を進める。主著に、『宗教と政治の転轍点―保守合同と政教一致の宗教社会学―』(花伝社、2015年)、『徹底検証 日本の右傾化』(編著、筑摩選書、2017年)など。最新刊は『だから知ってほしい「宗教2世」問題』(共編著、筑摩書房)

――そういった具体策に言及されているのが同論稿の特徴ですね。別の例をあげれば、エホバの証人は格闘技拒否の教えを忠実に守ったりします。体育の授業における剣道や柔道、あるいは騎馬戦といったものに、エホバの証人の子は参加しないわけです。

塚田 そういった事態にどう対応すれば良いか。たとえば体育の剣道は「体を動かす」「相手と打ち合う」ことだけが学びになるわけではありません。授業の手伝いや計測などを依頼したって良いし、剣道の歴史を学んでレポートを出してもらっても良いのです。また、他の実技を行っても何らさしつかえはありません。代わりの措置を講じ、それらを評価すれば良いわけです。

――塚田さんは、「(剣道などの)不参加を認めるのは適切な配慮だとしても、それに加えて何か疎外感を生まないような工夫」も必要だと書かれています。確かに、一人だけ剣道に参加しないという態度をとると、どうしても周囲から浮いてしまいます。

塚田 別の係の役を与えるとかでも良いんです。「配慮や尊重はしたから、あとは知らない」ではなく、学校現場において、「宗教2世」の疎外感や生きづらさを少しでも減らせるような環境作りをすること。それがこの問題について、宗教と家族の外の社会ができることの重要な一側面だと思うのです。

まずは現在の宗教教育の実情を
知ることから始めよう

――塚田さんは上越教育大学で学生を教えながら、教育の現場で宗教教育がどうあるべきかについても考究されています。宗教教育について、どう考えられていますか?

塚田 オウム真理教や旧統一教会などの問題が社会的に明るみになるたびに、「宗教教育が必要だ」「日本には宗教を教える時間がない」といった声があがりますよね。しかし、こういう議論をする際は、まず今の日本でどのような教育がなされているかを知るべきです。

 中学の「社会」に限っても、地理の時間では世界の宗教分布はもちろん、世界の人々の暮らしと関連した諸宗教の習慣、タブーなどを扱っています。歴史の時間でも、宗教の発生から始まり、世界史の背景にある宗教に関わる動きについての記述も充実してきました。公民分野でも、文化の一つとしてその多様性を扱っています。高校においても従来の日本史・世界史・倫理などに加えて、新設必修科目の「地理総合」では、世界の宗教と人々の生活について手厚く扱うようになりました。同じく新設必修科目の「公共」の時間では、消費者問題の中で霊感商法にも触れています。

――想像以上に、今の学校では「宗教」が教えられているのですね。

塚田「宗教」を単なる知識として知るだけでなく、さまざまな国の人がどんな価値観を持って生活しているのかなど、「文化」に主眼を置いて学ぶ「宗教文化教育」が進められている状況と言ってよいでしょう。昨年来の旧統一教会問題を機に「(宗教教育について)新たに何かを始めなければ」と言う人がいますが、多忙を極める学校現場と教員に対して無責任にそんなことを言うのではなく、すでにある枠組みの中で充実させていく方向で考えていった方が現実的だと思います。

――カルト教育の必要性について、塚田さんはどう思われていますか? 拙著『宗教2世サバイバルガイド』の中では、対談者の江川紹子さんが、カルト教団と接点ができた時にどう応じるかといったことを教える「カルト教育」の重要性を語っていたのです。

塚田 私も、それは必要だと思います。私の言い方でいうと「予防・対策教育」ですが、カルト問題に対するリテラシー、具体的にどのような手口や手法によってどのような人権侵害や社会問題が起こっているのか、学ぶことが大切です。

 その点では、消費者教育とも関連させ、具体的な手口や対応策などを扱うのが良いでしょう。近年はネットやSNSを使った勧誘も増えていますので、その意味でいえば、情報リテラシーをめぐる問題としてカルト問題を捉えることも必要です。

 また、総じてカルト問題は人権問題ですので、そこは外してはいけない。中学校社会科公民や、高校「政治・経済」「公共」では日本国憲法について教えるわけですから、そこで「信教の自由」について教える中で、カルト問題がなぜ問題かを伝えることもできます。たとえば教団名を隠して勧誘をしたりするケースがありますが、それは「相手の信教の自由を脅かす」という意味で憲法違反だと判例で認められています。

 そういった事例をとおして、信教の自由について改めて教えるならば、それもまた宗教教育であるとともに「カルト問題」対策のための教育にもなっていくと思うんです。この点は、「宗教2世」問題における信仰や実践の「強制」という問題を考えることにもつながってきます。

宗教2世問題を他人事にしないために
必要な観点とは

――冒頭で触れた塚田さんの論稿に話を戻します。私が感動したのは、「マジョリティにとっては『宗教』的と思われないものが、特定の宗教的マイノリティにとってはきわめて『(他)宗教』的なものとしてあらわれるという『思いもよらなさ』の可能性に気づくこと」の重要さを述べた箇所です。

塚田 私は、特にそこに気をつけています。この論稿では創価学会の事例も紹介していますが、学会にはお守りやお札を忌避する人がいます。受験シーズンを迎えるにあたって担任の先生が合格祈願で寺社に行って、お守りやお札をいただいてきたとします。その時に、創価学会の子はそれを、「他宗教」のシンボルとして捉え、お守りを渡されそうになると「気持ち悪い」と思う場合もあるわけです。

 その際、自覚的に宗教を信じていない日本のマジョリティは、お守りやお札がまさか宗教的なシンボルだと捉えられることを想定していません。ですが、宗教的マイノリティ(この場合は創価学会員)にとっては、それはまぎれもなく他宗教的なものとして立ち現れることがあるということなのです。

 マジョリティにとってそれは「思いもよらない」ことなのですが、その「思いもよらなさ」に想像力が及ぶようになることが、宗教教育上、いや教育上、大切だと私は考えています。他者が、宗教上あるいは文化上忌避するような行為や実践を、教育において無理やり強制する必要性なんてないと思います。それぞれの信仰や文化、自由が尊重されるべきです。もちろん、それが生命軽視や人権侵害につながったりしない、あるいは教育自体を全否定しないかぎりにおいてですが。

「宗教2世」の存在と問題は、こうしたマジョリティの側の「無自覚な宗教性」を浮き彫りにするものだと思います。問われているのは、当該の宗教・教団、あるいは家族関係だけではなく、マジョリティの社会の側であり、決して他人事ではないということを押さえていくべきでしょうね。

――無自覚な宗教性。それは、初詣に神社に行き、結婚式はチャペルでやって、クリスマスを祝い、みたいな宗教性のことでしょうか。

塚田 宗教社会学だと「文化宗教」と呼ばれるものですが、それはマジョリティの中にあたり前のようにあるものです。それが、自覚的に強い信仰をしている人には、時に「(他)宗教」的なものとして映り、圧力をかけてくるように感じられるのです。マジョリティの無自覚な「あたり前」を押しつけられるようにして、です。そこには、「特定の自覚的な信仰を持っているなんて日本社会では変わっている」という偏見も含まれています。

 思うに、「宗教2世」が生まれながらにその家・親の信仰を当然のものとして育てられる/迫られるのと、自覚的な信仰を持ったマイノリティが日本社会で「あたり前のこと」≒「文化宗教」を押しつけられるのは、パラレルな関係にあると言ってもよいかもしれません。

 そうすると「宗教2世」は、その両方に板挟みになりやすい、と見ることもできます。両面について改善すべきところを改善していく必要があるわけですが、とりわけ「社会」の側でできることは何か、という視点が必要なのです。

 だから、他人事ではない。このような視点を外さずに宗教教育について考えることが、いま求められていると思うのです。