夜は楽しく更けていった。サウナに何度も入り、湖にも入り(私は入らなかったがサウナとセットでコースに盛り込まれているかのような顔をして日本人の友人たちを湖に行かせた。フィンランド人がよくやる悪趣味なおもてなしの一つである。これがフィンランド人が「ととのう」を大事にしていると誤解されるゆえんだが、実際は彼らが悲鳴を上げるのを見て、もしくは自分たちも悲鳴を上げて楽しんでいるだけである。ビールも入っているのでテンションは高い)、お腹もいっぱいになってロッジ風の部屋で寝た。

姿を見せぬまま絶妙のタイミングで
サービスしてくれる宿主

 翌朝起きると夜の間に降った小雨が湖の上に神秘的な靄をかぶせ、あたり一帯薄墨色に包まれていた。晴れた日の湖畔の木々を見事に映す鏡のような湖も美しいけれど、こんな静寂の風景も趣きがあり、友人たちとその風景を写真に収めようと湖畔に出て行った。すると、遠くで魚が跳ねた。ぽちゃん、と音があたり一面にこだまする。何か釣れるのかな、と釣り好きの友人が興味津々に眺めていた。

 朝食を食べていると宿主から夫宛てにメッセージが入った。

「コテージの外に釣り道具と餌を置いておいたよ。うまくいけばマスが釣れるよ!」

書影『フィンランドは今日も平常運転』(大和書房)『フィンランドは今日も平常運転』(大和書房)
芹澤桂 著

 エスパーかと思うような絶妙のタイミングに驚いてドアの外を見ると、さっきまではなかった釣り竿とふた付きのバケツが置かれていた。朝寝を思う存分むさぼったためチェックアウトの時刻とされる12時までは小一時間ほどしかなかったけど、宿主はそんなのも見抜き、「ま、今夜は予約も入っていないしゆっくりしていきなよ」とまでいってくれた。

 その後夫がチェックアウトの連絡を兼ねてお礼の電話をすると、フィンランドでも比較的珍しい夫の苗字を宿主の男性は聞き覚えがあるといい、夫の親戚と知り合いだと判明した。そして思い出話や親戚の近況話で話し込み、釣り竿に対するお礼にも「すぐ近くに住んでいるからついでに寄っただけだよ」といってくれたようだけれど、最後まで宿主は姿を見せずじまいだった。チェックアウト方法はもちろん、部屋内を軽く掃除したらドアに鍵をかけてドアマットに鍵を隠すだけである。

 フィンランド人がシャイと聞くとそれまでなかなかしっくりこなかったけれど、それ以来あれこれ世話を焼きながらこちらの休暇を邪魔しないように気を遣い、押しつけがましいことなく姿を消すこの宿主のことを思い出すようになった。