岐雲園跡を訪ねた後は、いよいよ本コースの終点、蝸牛庵跡である。ただし、決定版ではその折の記述はあっけないほどに終わっている。

 向島桜堤をしばらく行って焼け残った白鬚神社の前から「左へ町中の小路をゆく」。「幸田露伴の寺島新田の蝸牛庵は丁度このあたりにあったときく、が今はそれを調べるよすがもない程、町も変り、番地も変ってしまっている」。そしてこのあとは、もう、すぐに、百花園の前に出てしまっている。

 2カ月前に対岸の今戸橋の上から遠望した向島。にもかかわらず満を持してやってきた今回も、旧居の発見には至らなかったのだ。決定版では町も番地も変わったからとのみ書いているが、『日本読書新聞』の連載では「1716番地」とかつての正確な番地まで記しながら「今は番地も全く変っていて捜すいとまもないのが残念である」とくやしがっている。

 確かに、露伴居住時代の寺島村新田(寺島村元寺島とも)1716番地は、昭和に入る頃には寺島町1丁目44番地に変わり、1965年前後の住居表示変更後は東向島1丁目9番13号に変わったから、1716番地という情報だけで探し当てるのはむずかしかったかもしれない。ちなみに野田が訪ねた頃は、寺島町1丁目44番地となっていたはずである。

「その六」コースの向島訪問は1951年3月、その記事が『日本読書新聞』に載ったのが同年6月6日。新聞連載をまとめた最初の単行本『新東京文学散歩』の刊行は同年6月25日だから、ここで蝸牛庵探しに加筆するのは無理だろう。

 ただ、決定版の刊行は1952年2月だから、超スピードで調査・加筆すれば改訂も可能だったかもしれない。しかし、ほかにも改訂候補は多くあり、結局野田はそれを果たせなかった。

 野田が露伴の娘幸田文(あや)の親切(『新東京文学散歩 続篇』)に助けられて本格的な調査を果たすのは1952年春、おそらく決定版刊行直後のことである。そしてこの折の調査・報告は『新東京文学散歩続篇』中の「寺島蝸牛庵」にまとめられ、さらに6年後の1958年3月にも再訪問のうえ増補されて東京文学散歩第1巻『隅田川』中の「向島寺島蝸牛庵」となった。