1584年の正月、安土城で諸大名は三法師を抱いた秀吉と、信雄の屋敷に、別々にあいさつに行った。また、大津の園城寺(三井寺)で秀吉と信雄が会談したが、信雄は最初の会談の後、暗殺をおそれ、家臣たちを置き去りにして伊勢長島へ逃げ帰った。
3月には秀吉と通じているとして3人の家老を誅殺した。「どうする家康」では、家康の示唆としたが、秀吉が仲違いを仕向けたという説もある。いずれにせよ、信雄は疑い深く、すぐに部下を殺してしまった。
家康と同盟し、4月に小牧・長久手の戦いに臨み勝利するが、秀吉は尾張から撤退し、伊勢の平定に転じた。秀吉が味方に付けた滝川一益の攻勢は退けたが、伊勢は失った。領土の重要部分を占領されて困窮した信雄は秀吉と会談して、北伊勢だけ返してもらい、娘を人質に出した。
しかし、秀吉が抜群のさえを見せたのは、官職で釣ったことだ。秀吉は従三位・権大納言となっていたが、翌年の2月に信雄が大坂城に上ると、同じ官職を信雄にも与えメンツを立て、翌月に自分は正二位内大臣になった。現代の企業でいえば、秀吉が会長と社長を兼ねて、信雄は代表権のない副会長になったのだ。
信雄は、大坂に上るように家康を説得したが、はかばかしくなく、秀吉は家康包囲網を狭めていった。石川数正の出奔はこの時の事件だ。しかし、家康は幸運だった。この年の12月に「天正大地震」が起きて、北陸から東海まで大被害となり、長島城も崩壊。信雄は清洲城に移り、大規模な軍事作戦は無理になった。また、九州で島津氏が全土制圧に近づき対応が必要になった。
秀吉は家康の懐柔に転じ、信雄に妹・旭姫の輿入れのあっせんをさせた。1586年に家康は大坂に赴き、翌年には、関白秀吉の義弟として従三位・権大納言となり、信雄は正二位内大臣に昇任した。
秀吉から追放されたが
2年で赦免され幸福な日々
信雄は小田原の役では韮山城攻防戦などで活躍した。家康の関東移封に伴い、秀吉は信雄に家康の領国の大半を与え移るように命じたが、信雄はこれを固辞した。秀吉は怒って信雄を追放し、下野烏山、ついで出羽秋田郡、さらに伊予に流した。この伊予で夫人を失ったらしい。
もっとも、織田家の中での世代交代の時期が来たのも理由だった。かつて三法師と呼ばれていた秀信も11歳になり、従四位下侍従になった。現代でも、創業者の嫡系の孫が成人したので、その叔父・伯父である副会長が相談役になるというのはよくある話だ。