家康は、「良い妥協案」が、秀忠周辺などから出るのを嫌った。大坂や京都で邪魔な知恵者を消したり、離間を謀ったりした。寧々の知恵袋の孝蔵主が謎の江戸移住をしたのも一環だし、織田家の人々にも工作が入った。
信雄は冬の陣の直前に大坂を退去している。信雄を「大坂方の総大将に」といううわさも流れたが、実現しなかったので、へそを曲げたのかもしれない。
信雄は片桐且元退去の後、京都へ移った。大坂夏の陣の後、信雄は家康から大和国宇陀郡と上野国で5万石を与えられ、四男・信良に上野小幡2万石を分知した。また、信良の娘が1623年に10歳で徳川忠長に嫁いだが、子がないまま、忠長は家光から不行跡を理由に排除された。
この間、信雄は1628年に、江戸城での茶会に招かれ、1630年京都北野の屋敷において73歳で死去し、宇陀松山領は五男・高長が継いだ。宇陀松山藩は、お家騒動で丹波柏原へ移封され、小幡藩も明和事件(山県大弐の勤王思想弾圧)で出羽天童に移ってそれぞれ幕末を迎えた。両者とも、国主並みの官位をもらっていたが、移封後は小大名扱いとなった。
叔父である織田有楽斎の子孫が領知した大和芝村藩と柳本藩は、高長の子孫を養子として迎えたので幕末の藩主は信雄の子孫である。
そして、信良の娘が稲葉信通の夫人となり、その子孫が公家の観修寺家を経て仁孝天皇の母となり、また、高長の子孫が柳原家を通じて大正天皇の母となったので、現皇室は二重に信雄の子孫である。
信雄の「軽率だが、失敗しても無理はしない」という人生哲学は、結果としてのれんを守り、子孫の繁栄をもたらしたのだから、決して暗愚のジュニアでもなかったようだ。