信雄は同母兄の信忠に助勢して各地を転戦したが、武功を立てたくなったらしく、勝手に伊賀に攻め入って国衆に惨敗し、家老の柘植保重を戦死させ、信長に叱責された(1579年)。

 だが、子どもの時から過酷な経験をさせられるなど気の毒な面もあったため、信長は見捨てず、伊賀を大軍で制圧して大半を信雄に与えたし、有名な京都での天覧馬揃えでは、信忠・信雄・信包(信長の弟)・信孝・信澄(おい)という序列で厚遇した。

 本能寺の変(1582年)の時は、四国遠征に出陣した弟の信孝に手勢を貸していたので、もともと不安定だった伊勢・伊賀を維持するだけで精いっぱいで、明智軍が撤退した後の安土城を接収しただけだった。しかも、なぜか、その城を焼いてしまった。

 それでも清洲会議では、南伊勢と伊賀の旧領に加えて尾張を得て、北伊勢の一部の旧領に美濃を加えた信孝より上だった。ただ、信雄・信孝は会議に出席せず、5人の宿老による集団指導体制が決められ、三法師の後見役にもならなかった。

 ところが、信孝が岐阜城から安土に移すはずの三法師を手放さず後見役を狙い、柴田勝家や滝川一益が後押ししたので、秀吉と丹羽長秀が、信雄を三法師成人までのつなぎ役としての織田家当主と認め、家康も支持した。

 家康が加わったのは、尾張の信雄と領地が接しているし、妹の五徳が信康夫人だったころからのパイプがあったからだと思う。

「どうする家康」で描かれたような、家康が勝家に近かった事実はない。また、信孝を自害させたのは秀吉でなく信雄であり、その旧領のうち、美濃は池田恒興らが得たが、北伊勢は信雄が継承し、本拠を清洲から滝川一益の居城だった伊勢長島城に移した。

正二位内大臣として
「代表権のない副会長」に

 この時期、京都所司代は信雄が任命するが、秀吉の指示で仕事をするという具合だった。また、安土城に織田家の跡継ぎとしての三法師があった。三法師はいわば代表権のない社主である。信雄は自分が社長で、秀吉は実力副社長にすぎないと考えたが、一方の秀吉は、信雄は名目だけの会長で、自分が実力社長と位置付けた。

 足利義昭と信長の関係と同じで、同じ方向を向いていても、互いの立場についてのわずかな主張の違いが、お家騒動になるのは、現代の企業と同じだ。