茶々が生んだ鶴松は、織田家の血を引いていたから、秀吉も織田家に気を使う必要がなくなっていた。信雄の娘・小姫は、秀吉の養女となっていたが、小田原攻めに先立って人質として京へ上ってきた徳川秀忠と結婚(実質的には婚約)し、父親の失脚によっても地位に変動はなかった(だが信雄失脚の翌年に死去)。
織田旧臣の中で前田利家の地位が上がって織田家臣団の取りまとめ役に抜てきされ、小田原の役の後に加増された大名が多かったので、織田信雄の家臣の再就職に問題はなかった。
それに、いったん追放しても、恭順していれば赦免するのが秀吉流の人事管理である。信雄も2年後には赦免され、秀吉の御伽衆(耳学問のための話し相手)となり、大和に隠居領ももらい、嫡男の秀雄も越前大野城主、従三位・参議となった。
官職は辞しても前官待遇で序列は決まるし、面倒を見る家来や一族も減るので、それほど悪い話ではない。秀吉の御伽衆には、足利義昭、斯波義銀などの織田家のかつての主君から、今井宗薫、古田織部など文化人まで多士済々だったから、楽しい社交サロンである。信用できない部下に悩まされ続けてきた信雄にとっては幸福な日々だっただろう。
のれんを守り子孫の繁栄をもたらした
「失敗しても無理はしない」人生哲学
秀吉が死ぬと、淀殿の周囲には親戚として織田一族が集合した。叔父の織田信包が最長老で、叔父の有楽斎もいた。関ヶ原の戦いでは西軍寄りの立場を取って、信雄も秀雄も改易されたが、信雄は大坂城で淀殿の元で暮らし、秀雄は江戸で扶持を与えられた。
大坂城内で、織田一族は徳川との融和派だった。江が秀忠夫人で家光も生まれた。浅井三姉妹と織田一族をブリッジに、織田・豊臣・徳川連合による「創業家集団」で天下を経営するのも、非現実的ではなかった。
実際、家康が将軍になったとき、公家衆の間では、秀頼が同時に関白になるといううわさもあった。豊臣関白・徳川将軍は並立可能だった。
家康も平和共存を否定していたわけでない。そうならなかったのは、第一は、家康の長寿と、二条城会見の後、前田利長、加藤清正、池田輝政、浅野幸長らが相次いで死んだことだ。福島正則が、豊臣挙兵を聞いて「3年遅く、3年早い」と言ったゆえんだ。
第二は二条城会見で、秀頼がカリスマ性あふれる貴公子として成長し、しかも、京都の民衆に熱狂的に迎えられたことに、家康が危機感を持ったことだ。そして第三は、秀頼と千姫が大坂冬の陣開始の2年前から夫婦関係を持ったとみられるのに、子ができなかったことだ。