碧蹄館の戦いの
経緯と実際の戦況とは

 では「碧蹄館の戦い」の経緯や戦況はどうだったか。

 小西幸長と対馬の宗義智が釜山に上陸したのが天正19(1592)年4月12日で、5月3日には漢城に入城した。朝鮮の官吏や兵士は逃げてしまい、圧政に苦しんでいた民衆は略奪に走り、景福宮も焼いて(日本が焼いたのではない)、身分差別の根源だった戸籍も滅失させた。

 朝鮮国王の宣祖は国境まで逃げて明の救援を求めたが、明はしばらく動けなかった。秀吉が思わぬ大成功に驚喜して、渡海するとか、北京に天皇を移すとか放言したのは、このころの一時の夢に酔ってのことだ。

 明国は平壌の小西行長に交渉を持ちかけて時間を稼ぎ、1593年になってだまし討ちで平壌を攻めたので小西らは漢城に退いた。だが、碧蹄館の敗北で明も交渉に応じることになって、日本軍は釜山に退いた。

 明の使節が名護屋に来たとき、秀吉が要求したのは、明の皇女と皇族との結婚、朝鮮南部の割譲、朝鮮王子を人質とする、勘合貿易の再開である。1596年になって明使が大坂へ来て、明が秀吉を日本国王とすると言ったので秀吉が書状を破り捨てたという伝説があるがそれは事実でない。

 北京を包囲したこともあるモンゴルのアルタン・ハーンを1571年に順義王とし、交易などで数多くの特権を与えて懐柔した前例があるので、双方ともにこれが前例として意識にあった。

 前回も書いたが、冊封を受けるといっても、朝鮮国王のように極端な従属関係になるのはまれで、アルタンも引き続き、モンゴル・チャハル部のハーンの宗主権の下にもあった。したがって、秀吉が日本国王に冊封されたとしても、明国の皇帝に臣従するということでない。

 ただ、明国使節団は内部で協議したが、同行していた朝鮮使節団の意見もあって、秀吉が最低条件としていた領土割譲に対してゼロ回答だったので、秀吉は再出兵を命じた(慶長の役)。

 この戦いでは、前回に兵站線が延びすぎて失敗したのに懲りて、南部の沿岸に倭城を築いて守りを堅くし、民政にも気配りをした。明軍に攻められた蔚山城での戦いなど苦しい場面もあったが、よく守った。

 1598年には漢城を攻撃する手はずで、実行したらおそらく成功しただろうが、秀吉の死でいったん撤退することになった。日本軍が撤退を始めると敵は勇気百倍になって攻めかかったため苦戦が続いた。海上では李舜臣の活躍が韓国では有名だが、一矢を報いたという程度で、李舜臣自身も戦死し、撤退は大過なく行われた。

 明国の側からすれば秀吉の死によって窮地から救われたという受け止めで、日本軍有利の展開だったのだ。また、朝鮮救援のための費用は明国にとって財政的に大きな負担となったし、現在の遼寧省や吉林省あたりに軍事的空白が生まれたことは、女真族のヌルハチの台頭を許した。

 1637年の丙子の乱では、ヌルハチの子のホンタイジが自ら漢城を攻め、国王仁祖は祖父のようには逃げず、漢城郊外の三田渡で三跪九叩頭の屈辱を味わうことになり、清国の服属国となった。国運を傾けてまで文禄・慶長の役で朝鮮を支援した明国としてみたらひどい裏切りだった。

 もし、秀吉の生前に明国が和平交渉でもう少し柔軟なら、あるいは、秀吉がもう少し長生きして漢城再攻略が成功した後なら、半島南部で「軍事拠点+α」程度の領土割譲、朝鮮に対するある程度の特権的地位、何らかの形での日明交易で妥協は成立していただろうし、それならば、朝鮮王国が満族に支配されることも、明の滅亡もなかっただろう。

 琉球王国については、1609年に島津氏が侵攻して、奄美の割譲、代官の駐留、明との朝貢貿易は継続となって明国も黙認したのだから、明としてのめない条件ではなかった。