徳川幕府による鎖国後
東アジアはどうなったか

 それでは、秀吉が死んで徳川幕府が鎖国し、満州族が満漢蒙の連合帝国である清国を建国してから東アジアはどうなったのか。

 清国では康煕帝までは、イエズス会の宣教使が皇帝の側に使えて西洋文明を伝えたが、1704年にローマ教会が「典礼問題」でイエズス会の現地の習俗をある程度認める方針を否定したことをきっかけに、キリスト教の布教禁止へ向かった。

 清国は康煕・雍正・乾隆の三賢帝の下における未曽有の経済発展により人口が過剰となり、海外への華僑の移民も増えた。ただ、清国政府の消極的な姿勢により貿易の主導権は西洋諸国に握られ、清国の海外進出はなく、欧米の植民地に安い労働力を提供するだけになった。

 徳川家康は、主としてポルトガルの支援するイエズス会が豊臣方と結ぶのを極度に警戒し、非常に神経質に対処した。だが、スペインとは風向きの関係でフィリピンからメキシコに向かうには、北大西洋回りの大圏航路を取る必要があることから、東日本を寄港地にしたいというプランがあって話し合いが行われ、支倉常長の欧州派遣もその一環だったが、フィリピン現地のスペイン人に反対されて頓挫した。

 英国とはベーリング海峡から北極海経由航路を模索したが技術的に不可能となった。結局、最後はオランダが「日本がどうしても必要な品物」の輸入を保証できるかを確認して、ポルトガル船の入港を禁じたのが鎖国の完成といわれる。

 オランダはキリスト教を布教することには興味がなかったし、利潤率のよい金の卵である長崎貿易を幕府との波風を立てることなく独占することで満足したので、これがペリー来航まで続いたのである。

 オランダは、もともとブルゴーニュ公国領だったが、相続のいたずらでスペイン・ハプスブルク家の所領となっていた。それが、プロテスタント弾圧に抗議して1581年に独立宣言して、世界の海に乗り出して、アジアではポルトガルの勢力圏を浸食していた。

 さらに香料貿易を巡ってインドネシア方面で英国と争ったが、1623年のアンボイナ事件で勝利して東南アジアでのオランダの優越が確立し、英国は日本からも撤退した。オランダはこの頃から一時期、台湾も占領した。

 英国は18世紀にはインド進出に力を入れ、その後、ナポレオン戦争もあって、東アジアに再び本格的に現れたのは19世紀になってからで、アヘン戦争、ついでアロー号戦争を起こして中国を半植民地化していった。

 もっとも、初めは徳川幕府も、鎖国を未来永劫(えいごう)続けようとしたわけでもなかった。明の滅亡の翌年である1645年からは、鄭芝龍・成功父子が日本に救援を求め、紀州藩主の徳川頼宣を総大将に派兵しようとした(横田冬彦「天下泰平 日本の歴史16」講談社学術文庫)。武士たちはなにも文禄・慶長の役に懲りたのでなく、捲土(けんど)重来を願うものも多かったのだ。

 これに大老・井伊直孝が「太閤の愚行を繰り返すべきでない」といって止めたのだが、頼宣の天下取りの野望を警戒したのも理由だろう。

 一方、このころロシアが極東に進出してきた。毛皮商人が主導で1648年にオホーツク、52年にイルクーツクに達したが、康煕帝がイエズス会の宣教使の助言を受けて、1689年にピョートル大帝とネルチンスク条約を結んで南下を阻んだ。

 そこで、ロシアの魔の手は、徳川幕府がロシアの進出に気がつかないままだったのに乗じてオホーツク海沿岸に集中し、結局、松前藩が自領だと認識していたはずのサハリン、カムチャッカ、千島まで取られてしまった。

 いずれにせよ、鎖国して世界の文明発展から2世紀以上の後れを取り、太平洋を西洋諸国の支配する海にし、アジア諸国が植民地化されるという事態になって、ようやく「豊臣のDNA」ともいうべき精神を保持していた薩長土肥による政権奪取で目覚めて、大きなハンデを背負いながら近代日本は再出発したのである。

*本稿の内容は「日本人のための日中韓興亡史」(さくら舎)、「令和太閤記 寧々の戦国日記」(ワニブックス)に詳しい

(徳島文理大学教授、評論家 八幡和郎)