なぜこのような条例改正案が?
その理念は隙だらけ

 そもそも、なぜかような虐待禁止条例改正案が出たのかをまとめると、以下である。

・子どもの放置に起因する悲惨な事故をなくしたい。
・学童保育の待機児童解消のための仕組みづくり。
・改正案を通じて子どもの放置をなくす社会的気運を高める狙いもあった。

 その理念自体は大いに賛同できるのだが、その理念のアウトプットは全体的に隙だらけとなった。待機児童解消には学童保育クラブの受け皿をさらに拡充していくべきという全国的な課題が無視された感があった(待機児童がいない県も15あるが、埼玉県は全国で2番目に待機児童が多い)し、虐待につながる「放置」の定義を唐突にものすごく広げようとしたのも乱暴であった。

 たとえば国内の現行法のネグレクトであれば「食事を与えない・家に閉じ込める・重い病気になっても病院に連れていかない」などと定義されているのに対し(児童虐待の防止等に関する法律 第二条)、埼玉県議団の改正案では「子ども(小学3年生以下)だけの留守番・おつかい・登下校・公園で遊ぶ」などを広くまとめて「放置(虐待)」に当たり、さらにそれを見かけた人は通報しなければならないとしたのであった。

 世論のあれだけの反発を瞬時に招いたのは、現実に即していない改正案の非合理性に加えて、多くの人の人格と保護者の子育て方法を否定しにかかって、国民の怒りを買ったからである。それまで問題なくすこやかに育てられたり育ったりしてきたつもりなのに、急に赤の他人から「その子育ては虐待」と、自分や自分の保護者に向かって指を突きつけられたら、誰でも「失礼な」と思うに決まっている。

 子育てなんてただでさえ暗中模索であり、保護者は苦悩しながら各人がやれる範囲内での最大限の努力で、日々子どもと向き合っている。号泣する我が子を断腸の思いで毎朝園に預け、夕方になれば少し早足でお迎えを急ぐ毎日である。その人なりの「最大限」が至らずに、あるいはほぼゼロで虐待となるケースもありはするが、「自分はちゃんと努力できているのか」「自分はダメな親なのではないか」などの根源的な葛藤すら抱えて取り組む“子育て”なる事業は、他人から安易に否定されていい領域のものではない。