空の財布Photo:seksan Mongkhonkhamsao/gettyimages

昨年春から上昇し始めた消費者物価の影響を受けて、今年の春闘の賃上げ率は高い伸びとなった。岸田文雄首相の掲げる「賃金と物価の好循環」が視野に入ったとの見方も増えている。一方、早晩デフレに逆戻りするとの悲観的な見方も少なくない。そこで、慢性デフレから賃金と物価の好循環へ移行するためのポイントを整理し、その過程で立ちはだかる壁と、政府に求められる対応策を提示しよう。(東京大学大学院経済学研究科教授 渡辺 努)

慢性デフレから好循環の新たなサイクルへ

 1995年頃に始まった慢性デフレは、商品の価格と賃金が上がりも下がりもせず、毎年据え置かれるという現象だ。図1の図解で説明しよう。

 図1の上のボックスから出発すると、各企業は毎年、価格を据え置く。すると、消費者側の生計費も毎年不変だ(右端のボックス)。生計費が変わらないので、労働者は賃上げを要求する必要がない(下のボックス)。企業側からすれば、賃上げがなく人件費が変わらないので、価格転嫁も必要ない。これで出発点の価格据え置きに戻る。

 95年以降、このサイクルが1年に1回転、四半世紀にわたって繰り返されてきた。そして、昨年春以降の物価上昇と賃金上昇によって、日本経済はようやく新たなサイクルへと移行しつつある(図2)。

 図1と同様に上からたどると、企業は商品の価格を毎年2%程度安定的に引き上げていくとする。すると、生計費も毎年2%程度のペースで上昇する(右端のボックス)。

 生計費が毎年2%上がるのだから、図1のように賃上げしないわけにはいかない。労働者は毎年、生計費上昇分(2%)に労働生産性の上昇分を加味したベアを要求するだろう(下のボックス)。なお、ここでは説明を簡易にするため、労働生産性の上昇率はゼロと仮定する(生産性上昇率がゼロでないとしても以下の議論の本筋は変わらない)。

 毎年賃金が2%上がる中で、企業は人件費の増分を価格に転嫁する(左端のボックス)。その結果、2%の物価上昇が起こる(振り出しだった上のボックスに戻る)。このようにして、新サイクルでは物価と賃金がそれぞれ毎年2%、安定的に上昇していく。

 慢性デフレのサイクルと好循環のサイクルの比較(特に、なぜ好循環のサイクルの方が望ましいのか)については、拙著『世界インフレの謎』を参照されたい。

 本稿での関心は、旧サイクルから新サイクルへの移行の過程でどのようなことが起きるかだ。移行のパターンは2つに分けられる。