伝統的な塩作りを守ってきた
地元の人々の歴史

 この芸術祭では珠洲市の10のエリアごとに、計59組のアートが点在する。日本海の荒波に侵食した岩礁が多く存在し、最多数の作品が展示されている大谷エリア、能登半島の最先端に位置する日置エリア、漁師や船乗りの信仰を集める三崎エリア、古代珠洲の中心であった正院エリア、海と山を結ぶ道の分岐点となっている飯田エリアなど、各々のエリアが個性を醸し出す。

 作品巡りには車やバスが必須。絶景の海岸線が続いた後に、深閑とした山あいの道にも入るなど、起伏の変化が激しい景色が楽しめる。美しい日本海と豊かな里山の両方の景色を堪能できるのが、この芸術祭の醍醐味の一つ。

 老若男女を問わず人気が高いのは、ドイツ・ベルリン在住のアーティスト塩田千春氏制作の『時を運ぶ船』。2017年の第1回開催からメインの大谷エリアに常設されているので、奥能登芸術祭の“顔”ともいっていい。

ど素人でも腑に落ちる現代アートの鑑賞法、ウォーホルを知らなくても大丈夫一面の赤の世界は圧巻 塩田千春作『時を運ぶ船』(©JASPAR,Tokyo 2023 and Chiharu Shiota) Photo by Kichiro Okamura 写真提供:奥能登国際芸術祭委員会事務局

 

 “場所やモノに宿る記憶”といった目に見えない存在を、無数の赤い糸で紡ぐのが塩田氏の作品の特徴。この作品も、珠洲の「塩田」に敷き詰める砂を運ぶ船から、赤い糸が部屋中に貼り巡らされている。

「この地域では日本で唯一の揚浜(あげはま)式塩田で塩を作っています。塩田では、汲み上げた海水を砂地にまき、日光と風の力で水分を蒸発させて塩を付着します。その時に使う砂を運ぶのが、この船なんです」

 説明してくれたのは、地元出身のボランティアスタッフ。有料のスポットには必ず数人のボランティアスタッフが常駐し、作品の説明や珠洲の歴史を語ってくれる。事前の学習はなくても十分に鑑賞できるだろう。地方の芸術祭のよい点の一つは、このように無償で運営を手伝う人々の熱意と愛が感じられること。

 揚浜式塩田は何度も消滅の危機を迎えながら、現代までその製法が受け継がれている。

 そして赤い糸は、塩づくりの技術を守り抜いた人々の記憶と歴史を伝えるものの象徴だ。船はかなり古いものだが、船首が会場の外の海の方角に向かっており、今にも海に向かって漕ぎ出していきそうな躍動感を感じる。

「塩田は“えんでん”とも”しおた”とも読みます。塩田千春さんはそこに深い縁を感じて制作に励まれたそうですよ」

 作品を離れる前に、先ほどのスタッフがそう教えてくれた。

ど素人でも腑に落ちる現代アートの鑑賞法、ウォーホルを知らなくても大丈夫塩田脇の海岸では、時々激しく波が立つ。いかにも日本海らしい風情   Photo by Rika Higashino