「対症療法」ではない政策を
提案できない野党の体たらく
ここで気になるのが「野党」の存在だ。野党はそうした岸田内閣の問題点を指摘し、それに代わる新たな政策を提案できているのか。
残念ながら、現状では必ずしもそうとはいえない。
岸田首相の「経済、経済、経済」に対抗するように、泉健太・立憲民主党代表は国会での代表質問で「国民が望むのはインフレ手当の『給付、給付、給付』ではないか」と述べた。
また、玉木雄一郎・国民民主党代表は街頭演説で「今一番大切なのは、『賃上げ、賃上げ、賃上げ』だ」と主張したという。
要点を連呼するブレア元首相のスピーチをまねしつつも、苦しんでいる人をとりあえず救う「対症療法」を打ち出しているのは、岸田首相と変わらない。岸田内閣の政策が対症療法に終始しているのは、野党の体たらくも一因だといえる。
ただし、それは野党だけのせいではない。かつての野党は発想力・構想力に欠けていたわけではなく、革新的な政策を提示できていた時期もある。決して「なんでも反対」だけではなかったのだ。その力が衰えてしまったのも、実は自民党の影響である。
というのも、自民党は日本国民のニーズに幅広く対応できる、政策的には何でもありの政党だ。野党との違いを明確にするのではなく「野党と似た政策に予算を付けて実行し、野党の存在を消してしまう」のが自民党の戦い方である。
戦後の日本政治では、野党が革新的な政策を示すと、自民党は「野党の皆さんもおっしゃっているので」と躊躇(ちゅうちょ)なく予算を付けて実行してきた。その場合、実績はもちろん野党ではなく自民党のものとなった。
そうした経緯を如実に表す、一つのエピソードがある。
筆者はかつて、社会民主党の政審会長だった伊藤茂氏とお会いしたことがある。伊藤氏は、「戦後、農地改革以降の経済政策は、全部革新が考えた。それを、保守政権(自民党政権)がカネを付けて実行した」と語っていた。
ここでいう「革新」とは、1960~80年代にかけて全国に誕生した、野党、労働組合、住民団体などに支持基盤を置いた首長が率いる「革新自治体」を指す。
具体的には、蜷川虎三知事時代の京都府、美濃部亮吉知事時代の東京都、長洲一二知事時代の神奈川県、飛鳥田一雄市長時代の横浜市などである。
革新自治体は高度成長期に起きた、公害などの都市問題に取り組む住民運動の高まりの中で誕生した。そして、福祉・公害規制などで新しい政策を生み出した。
しかし、自民党政権はその成果を自らのものとした。環境庁を発足させ、「福祉元年」を打ち出したのだ。そして、革新自治体が実行した環境政策や福祉政策を「国の政策」とし、予算を付けて、全国の自治体で一律に実施したのである。