人を動かすには「論理的な正しさ」「情熱的な訴え」も必要ない。「認知バイアス」によって、私たちは気がつかないうちに、誰かに動かされている。人間が生得的に持っているこの心理的な傾向をビジネスや公共分野に活かそうとする動きはますます活発になっている。認知バイアスを利用した「行動経済学」について理解を深めることは、様々なリスクから自分の身を守るためにも、うまく相手を動かして目的を達成するためにも、非常に重要だ。本連載では、『勘違いが人を動かす──教養としての行動経済学入門』から私たちの生活を取り囲む様々な認知バイアスについて豊富な事例と科学的知見を紹介しながら、有益なアドバイスを提供する。

「もれなくキャッシュバック」にハマる人が知らない、残念な裏事情Photo: Adobe Stock

キャッシュバック制度はワザと「面倒くさく」されている

 1つ議論の余地がないことがある。それは、「もし、何かを今よりもっと簡単にできる方法があるのなら、あなたは今、それを必要以上に難しくしてしまっている」という事実だ。

 ナッジを提唱したリチャード・セイラーは、このように物事を必要以上に難しくするものを「スラッジ」と名付けた。

 ナッジは望ましい行動を簡単で楽しく、自然にできるように促すが、スラッジはその逆だ。ゴールに達するために、ぬかるんだ泥(スラッジ)を通り抜けなければならないような状況をつくり出してしまう。

 そして、小売業には意図的につくられたスラッジがある。たとえば、キャッシュバック制度だ。

 これは販促手法としてよく知られている。ポスターに「5000円オフ!」といった大きな文字が書かれている。

 だがよく見ると、小さな字で「購入時には全額お支払いいただきます。後日、5000円のキャッシュバックを申請できます」と書かれている。

「それくらいの手間なら問題ない。楽にお金が手に入るのだから、みんなこのサービスを利用するはずだ」と思うかもしれない。

 だが、このようなキャッシュバックはメーカー側が得をする販促手法として知られている。なぜなら、実際にキャッシュバックを申請する消費者の割合が少ないからだ。

 あるマーケティングの調査によれば、実に4割の消費者がキャッシュバックを申請しないという。わずかな手間でお金が手に入るという状況でも、面倒だという理由でそれを先送りして、結局は無駄にしてしまうのだ。

「ポイント」や「商品券」もうまく使わないと損をする

 商品券ポイントプログラムの収益性が高いのもこのためだ。

 こうしたサービスの提供側は、利用者の手間をできるだけ煩雑にしようとする。利用規約には、小さなスラッジがあふれている。

 キャッシュバックは、購入から2か月が経過しないと申請できない。しかも、その際はレシートとパッケージのバーコードが必要になる。2か月前に壁に固定したテレビの裏側に貼ってあるステッカーが必要になる場合もある。

 スラッジに出くわすたびに、ゴールにたどり着く人は減り、メーカーの利益が増える。消費者を引き寄せる収益率の高い販促サービスを、わずかなコストで実施できる

 このように、抜け目のないマーケターはスラッジをつくりだして収益を得ている。だが、意図せずに巨大なスラッジを生み出しているのは政府である。

「私の担当ではありません」「月曜日しか受けつけておりません」「別の書類が必要です」「申し訳ございません、私が決めたわけではございませんので」─こうしたお役所仕事は、まさにスラッジだ

 米国では、選挙登録をするために何時間も並ばなければならないこともある。

 オランダでは、鉄道の定期券をキャンセルするのにかなりの手間がかかる。しかもウェブでは手続きできず、駅まで出向く必要がある。多くの無実の人が国税局から詐欺罪で告発されるという失態もあった(おかげで、新制度は改善され使いやすくなった)。

(本記事は『勘違いが人を動かす──教養としての行動経済学入門』から一部を抜粋・改変したものです)