たとえ今、どんなにお金持ちでも、自分のお金を誰かに奪われるのではないかと心配して、他人のために使うことをしないでケチケチしている人は、本当の意味で幸せにはなれません。
経済面だけでなく、同時に他の面でも幸せになっていく人は、世のため人のために、その時点で身の丈に合ったお金を回していける人です。
一言で言えば、
「人が喜ぶことには福の神がやって来て、人が嫌がることには貧乏神が来る」
と考えていいでしょう。
利己的な生き方をしていると、どんなに剛腕を振るってお金を稼いでも、精神的に満たされなかったり孤独な状態になったりして、結局、福はやって来ないのです。
さて、驚くことに、貧乏神と福の神はきょうだいだと言われています。
ですから、福の神が来たと喜んでいると、ある日突然、血縁関係のある貧乏神が来るかもしれません。
たとえば、福の神が来て裕福になった家があったとします。
しかし、その境遇にあぐらをかいて人にほどこしもせず浪費したり貯め込んだりしていると、福の神は嫌気が差して、きょうだいである貧乏神と交代してしまいます。すると、家の運が傾き、経済的に転落していく、というわけです。
しかしそれは、人間にとってありがたいことでもあります。
なぜなら、そのままおごり高ぶっていたら、人としてさらに間違った方向に進み、悪い縁を結んでしまうからです。貧乏神が来て困窮することによって、自分の生き方を省みたり、人の情けを知ったりすることで成長するのです。
仏教では、豊かになればなるほど慈愛をもって社会や周囲のために還元していくのが、富める者の義務だと考えます。
貧乏神は、心の貧しい人に「教育的指導」をしてくださる大切な神さまなのです。
万が一、貧乏神につかれたと思ったら、どうしたらいいでしょう。
「あっちへ行って!」と毛嫌いしても出ていってはくれません。
「お金がないから」と心まで貧しくなったら、貧乏神が居ついてしまいます。貧しいながらも、自分ができることを惜しみなく人にしてあげることです。
たとえば、お財布にある小銭を募金したり、ボランティア活動に協力し、労働力や自分の能力を提供したりすればいいのです。
お茶碗1杯分しかないご飯を「分け合って食べよう」と言える思いやりがもてるかどうか。これがとても大事なのです。
先ほど、汚い部屋には貧乏神が来るとお話ししましたが、これも思いやりの問題です。
自分の住む環境や部屋に対して思いやりがあれば、汚れたままにせず、できるだけきれいにしてあげようと思うはずです。
また、着るものや食べるものに対しても手をかけ、周囲の人はもちろん、物に対しても丁寧に接するはずです。
「面倒くさいから散らかっててもいいや」
「忙しいから適当にしよう」
と思う人は、貧乏神が「こんにちは」とやって来るので、注意してください。
あらゆるものに感謝の念をもち、さらには、それを人に分け与えることに喜びを感じていれば、貧乏神が来たとしても、すぐにきょうだいである福の神に代わってしまいます。
つまり、貧乏神と縁を結ばないためには、慈悲深く生き、社会に貢献できることはないかと考え、人にほどこしていくことを忘れないでいればいいのです。