大坂の陣に備えた
家康の大名配置

 関ヶ原の戦いからしばらくたってから、家康は少しずつ、大坂包囲網を狭めた。家康が新たに築城したなかで、膳所城だけは関ヶ原直後の築城である。これは、大津城が東からの敵の来襲に向いた立地で、西から攻められると西側の高台から大砲を打ち込まれて弱かったので、西からの守りに向いた郊外の膳所に移転したものだ。

 それに対して、少し遅れて堅固な城を築城した彦根・篠山・伊賀上野といったところは、明らかに豊臣封じ込めで、まさに大坂の陣の準備だった。

 彦根も佐和山城がやはり東や北から来る敵に備えた地形だったので、南から来る敵に備えた場所に築き1606年に移った。

 伊賀上野も関ヶ原の戦いの8年後に、富田信高を宇和島に移して藤堂高虎を津城主として統治の中心にしたが、支城として日本一の高さの石垣(大坂城二の丸と同じ)を持つ上野城を築かせた。大坂の陣で負け戦になったら、家康は上野城に、秀忠は彦根城に拠るつもりだったともいう。

 丹波篠山城も、1608年に改易された前田茂勝(玄以の子)のあとに松平康重を入れて、大坂城の喉仏というべき場所に藤堂高虎が差配して築城した。

 北の方に目を移すと、また、堀氏改易の後は、越後に六男の松平忠輝を入れた。加賀の前田への備えである。宇都宮には蒲生秀行がいたが、関ヶ原の戦いの後会津に戻し、その後に信康の同母妹である亀姫の息子である奥平家昌が城主となった。前田利長には、弟で西軍寄りだった利政の旧領能登、および、西軍だった丹羽長重の小松が与えられたが、ほぼ増減なし。その日和見的な姿勢に対する評価が低かったことが分かる。

 そして、大坂夏の陣が終わってのち、大名の改易などを通じて、譜代大名の領地を西へ、あるいは、北へ進めた。和歌山に浅野氏に代わって徳川頼宣、姫路に池田氏のあとに本多忠政、広島城主だった福島正則改易後に旧領の一部の備後福山に水野勝成を入れた。元和偃武の後としては珍しい本格的な築城だった。

 生駒氏改易の後の讃岐には、水戸の徳川頼房の庶長子である松平頼重、松山に家康の異父弟の子の松平定行、松江に越前松平分家、小倉に信康長女の婚家である小笠原家、庄内に酒井氏、会津に秀忠の隠し子だった保科正之といった具合で、これで、大体、幕末まで続く徳川家の全国支配体制が整った。

 また、幕府領(天領は明治以降の呼び名)として重要拠点を確保した。城代ないしそれに代わる者を置いたのは、大坂・二条(当初は伏見も)・駿府・甲府だけだが、それ以外に、長崎・日田・大森・倉敷・生野・堺・奈良・大津・山田(伊勢)・笠松(美濃)・高山・相川(佐渡)などに奉行所や代官所を置いた。

 幕末になると、箱館・新潟・神奈川・下田・神戸といった開港地もそれに加わった。上記のうち日田とか笠松はぴんとこない人も多いかと思うが、それぞれ、西国郡代、美濃郡代の所在地である。

 幕府領は大体400万石で、旗本領を加えると800万石ほど。旗本は三河以来の譜代と誤解している人が多いが、外様大名で改易された家の名跡を残す場合もあり、忠誠心もそれほど強いとは限らず、幕末の戦いではまるで役に立たなかった。

 鳥羽伏見の戦いを主導して、幕府をみじめな敗戦に追い込んだ大目付は滝川具挙、陸軍奉行は竹中重固という、有名どころの戦国武将の末裔である。

(徳島文理大学教授、評論家 八幡和郎)

*本記事の内容は、『47都道府県の関ヶ原」(講談社+α新書)、『令和太閤記 寧々の戦国日記」(ワニブックス)に詳しい。