生粋の国鉄マンとしての
国鉄再建に対する深い洞察

 1983年12月、吉蔵は第2次中曽根政権の運輸大臣に就任した。第二臨時行政調査会は前年、「国鉄は5年以内に分割民営化すべきだ」と答申し、鈴木善幸内閣も分割民営化方針を閣議決定していたが、生粋の国鉄マンであった彼は国鉄再建を次のように分析する。

「国鉄の借金のうち少なくとも7割位は、新幹線をはじめとする設備投資に要したものだ。利子のつく金を身分不相応に借りて投資をして、収入がそれ程に上がらなかったという形である。道路や港湾のように国が全額を投資するか、大都市の地下鉄のように建設費の60~70%を補助金として出していれば、よほど様子が変わっていた筈。あとは何とかなるだろうと、取りあえず借金で賄ってきたのが、一番大きな原因である(『中央公論』1984年3月号)」

 一見すると国がもっとカネを投じて鉄道建設をすべきだったと読めるかもしれないが、吉蔵が指摘するのは、制度設計が不十分だったばかりに、国鉄は必要な設備投資の資金さえもまかなえず、資金調達を借金に頼った結果、首が回らなくなって自滅したという構造的問題である。この他、彼の記した国鉄の抱える課題と改善案は現代から見ても正鵠(せいこく)を射ており、運輸行政、鉄道事業に対する深い洞察がうかがえる。

 念願の運輸大臣だったが1年足らずで交代となり、その後は政府、党の要職にはつかなかった。1990年、長男・博之に地盤を譲り政界を引退。その後も地下鉄協会会長などを引き続き務め、2007年に94歳で逝去した。

「鉄道族」のサラブレッドとして
父の後を継いだ博之

 博之は1944年4月に島根県松江市に生まれ、東京大学法学部を卒業した1967年に通商産業省に入省。1986年に退官して吉蔵の秘書に就任すると、1990年の第39回衆議院議員総選挙で初当選した。

 博之は当選早々、地下鉄推進議員連盟の事務局長を務めるなど、父の後を継ぎ鉄道関係の要職を歴任し、後に自民党の鉄道議員連盟会長や、与党の整備新幹線建設推進プロジェクトチーム座長を長く務めた「鉄道族」のサラブレッドである。

 しかし、博之には、吉蔵ほどの鉄道への「熱意」が感じられない。もちろん地下鉄推進議員連盟の中心人物として、舞台裏で地下鉄整備関連予算の獲得に尽力したのだろう。

 だが、新聞記事に彼の名前が登場するのは、大阪から彼の選挙区である松江を経由して下関に至る山陰新幹線を「実現する国会議員の会」の幹事長として、「費用対効果などで悲観的なことを言われてきたが、北陸新幹線は開通で地域が発展し、計算外の効果があると立証された。必要な投資はすべきだ(2018年2月12日朝日新聞島根版)」とコメントしたことや、北陸新幹線敦賀延伸開業の開通時期が遅れる見通しとなった際に、与党PTの座長として国交省に早期開通を求めたことくらいで、吉蔵の様なリアリズムと大局観は感じられない。