茶々は、自分たちは仏敵である物部氏の子孫なので不幸なのだと、石山寺の僧に言われたため、本堂大修築の費用を寄進している。また、こうした事情が故に仏教に熱心でキリシタンを嫌ったことで、豊臣とキリシタンが手を結ぶ選択肢の支障になり、家康を利した。

 ちなみに、蘇我馬子のひ孫(馬子→倉麻呂→連子→娼子)が藤原不比等の妻となり、藤原北家の祖である房前の母となったので、蘇我と物部の血は皇室において共存している。

平清盛のみならず
秦の始皇帝も先祖?

 このほか、明治天皇から野武士の子孫だといってからかわれた蜂須賀小六正勝、キリシタンを弾圧し島原の乱の原因をつくった松倉重政なども、今上陛下の先祖である。香淳皇后の母親は島津家の出身であることはよく知られている。

 その島津氏だが、始祖の忠久は、もともと惟宗氏である。古代豪族・秦氏が惟宗朝臣を賜ったものだが、平安末期には近衛家に仕えていた。その妻が比企氏で頼朝の乳母の娘だった。その縁で鎌倉に下り、頼朝に仕えて薩摩の守護になった。そして、室町時代になると島津氏は忠久が頼朝の隠し子だったと言い出し、江戸時代には頼朝の墓を鎌倉につくった。

 ただ、いわば「戸籍上」はあくまでも惟宗氏であり、秦氏は建前としては始皇帝の子孫だから、回り回って今上陛下も始皇帝のDNAを引き継いでいることになる。中国人にこういう話をすると結構喜ぶ。

 平清盛も皇室の先祖だ。娘が公家の坊門信隆と結婚し、坊門信清、四条貞子から後嵯峨天皇の中宮で、後深草天皇(北朝)と亀山天皇(南朝)の母となった西園寺姞子につながる。

 一方、足利将軍のDNAは皇室に入っていないようだ。これは、室町時代は有力者が娘を皇室に嫁がせることが少なく、また、将軍の子も仏門に入ることも多かったので、子孫が少ないのだ。

 ただ、鎌倉時代の足利義兼の妻が北条時政の娘・時子で、やはり公家の四条家や西園寺家を通して松木家に入り、東山天皇につながる。北条義時や泰時の子孫も、足利、一色、広橋、松木家などを経て東山天皇につながっている。

(評論家 八幡和郎)