褒め言葉とは限らない「わかりやすい」という評価
講演や記事に対して「わかりやすい」という言葉を使って褒める方がおられる。それはうれしいことではあるが、「わかりやすい」が意味するものは、直感的に把握でき、情報が明確で、受け手が容易に消化できたことにすぎない。よって、内容そのものが「有意義なもの」「深みがある」「価値がある」ことを意味しない。つまり、本音を言うと、「わかりやすい」と褒められても、果たして喜んで良いかわからないのである。
ただし、これが会社などで行われる研修に対する褒め言葉であれば、手放しで喜べる。研修では、講師が複雑な概念を生徒に「わかりやすく」説明することは、達成すべき質の指標としてとても重要なものだからだ。しかし、講演や記事などで何らかの思想や概念を伝達するにあたっては、「わかりやすい」は、もしかすると実際には伝達するほうにとっても、されるほうにとっても良くない状況をもたらしているかもしれない。
そぎ落とされ、本質が見えなくなる
まず、何かを「わかりやすく」表現することは、時としてオーバーシンプリファイ(過度に単純化すること)につながる。複雑な現象や概念を単純化することで、重要なニュアンスや詳細を失わせている可能性は高い。特に学術的な議論や技術的な分野では、単純化が過ぎると誤解を生む可能性がある。高度に専門的な主題を「わかりやすく」説明しようとする時、その複雑性の多くがそぎ落とされてしまう。これは、本質的な理解への道を閉ざすことになり得る。
また、文学や芸術においては、「わかりやすさ」が必ずしも美徳ではない。多くの偉大な作品は、書いた本人すらその内容を簡単にまとめてくれと言われると、「まとめられないからこそ、この長さの作品になっている」と答えざるを得ないような、複雑さや多層的な解釈可能性において評価されているのである。哲学書に至っては、一読では何のことやらさっぱりわからないものを注意深く読み解く過程で、(読み手にとって)重要な発見が生まれる。したがって、「わかりやすい」という評価は、時にその作品の深みや独創性を過小評価していることになりかねない。
このようなことから、「わかりやすい」はもちろん使って良い褒め言葉ではあるものの、時と場合を選ばなくてはならない。