アメリカや英国だけでなく世界中のニュースを見たり、(無観客ではあったが)海外のサッカーなどのスポーツに熱中し、動画配信サービスを通じて、韓国ドラマなどの多種多様なコンテンツに触れたりする機会が増えた。以前は知らなかった文化や異色のストーリーに魅了された。
また、社交的なイベントの減少は、特に仕事上の義務からの解放感をもたらした。以前は、お付き合いで参加しなければならないイベントも多く、それなりにストレスの原因となっていたが、イベントそのものが実施されなくなり、時間をより有意義に使うことができるようになったのだった(もちろん新たな出会いの機会は減った)。
また、家族と過ごす時間も増加した。改めていろいろ話をしてみることで、新たな発見や楽しさを見いだすことができた。こうした対話は、家族との関係をより強固なものにし、日常生活に新鮮さと喜びをもたらしたのである。
急な用事で交通機関や公共施設などを利用することがあっても、どこもかしこも空いていて、快適であった(もちろん、空いているということはその施設や組織の売り上げが減少しているわけであって、そんなことがいつまでも続くようではインフラは維持できないので、暫定的にその快適さを享受できたという話にすぎない)。
オンラインツールが前提となり
仕事以外にも増えたメリット
オンラインツールの普及により、相手もそのツールを使っていることが前提となったおかげで、世界や地方に散らばる友人たちとのコミュニケーションを楽しむことができた。
コロナ禍のように、お互いが暇であることを確信できていない限り、遠方に住む知人と気軽に話をしようなどとはなかなか思わない。そして、実際に話してみると、自分が今取り組んでいることを相手もやっていることを知り、シンクロニシティーに驚き、さらに会話がはずんだりするのだった。
さらには、世界の有力大学が第一級の学者のセミナーを公開してくれたりもして、それらを無料または安価な参加費で視聴できた。世界でその業績が知られるような学者がライブで普通に参加者であるわれわれの質問に答えてくれるのだからうれしい驚きである。日本で実施される企業のセミナーでの客寄せパンダ的な大上段からの講演ではなく、本当に大学のゼミのような感じで、ある種フランクな雰囲気の中で話ができるのだから、本当に楽しかった。
このように考えてみると、幸いコロナで重症化した人が筆者の身近にはおらず、また忘れっぽい性格であるがゆえに、多くのことが忘却の彼方にあるためなのだが、コロナの時代は意外に良いことが多かったと思えるのである。
しかし、それは自分だけかというと、私は必ずしも特殊な部類に属するわけではないらしく、同様の感覚を持つ人がそれなりにいることにも驚かされる。