Sくんは、伊集院さんが寝てしまわないか、書斎から逃げ出さないか、心配で仕方がないのですが、「馬券を買わないと書かない」と言い張るのですから、言われた通り新宿の場外馬券売り場に行かざるをえません。その間の見張り役は奥様。S君は指示通り、馬券買いを始めます。なにしろ何十通りの結構細かい注文ですから、後ろの方に列をなしているコワーイおっさんたちが「おいおい、若いの何してるんだ」と罵声の嵐……。

 で、ようやく注文を書き終わったS君が背広のポケットから何百万円もの現ナマを出すと……ホーッともシーンともとれるなんとも言えないため息を背に、伊集院宅に急ぎます。

 やっとのことで伊集院宅に着くと、書きなぐったエッセイが置いてあり、先生は高いびき。
しかし、S君の仕事はこれからです。すぐさま編集部に帰ってきますが、とても印刷工が読める状態の原稿ではありません。

 書きなぐったに近い原稿(あくまでも、字が書きなぐってあるのであって、中身はちゃんとしているのが凄いところです)を、数人の編集部員が分担して、「ああだ、こうだ」と類推しながらワープロで清書して、ようやく終了。その清書係の一人が私でした。つまり、編集部員のほとんどが伊集院さん一人のせいで徹夜をしていたのです。

 原稿は遅い、手間はかかる。しかし、作家というのは不思議なもので、締め切りをきっちり守る人が面白いことは数少なく、手間がかかってややこしい人ほど読者からの支持があります。やはり読者は、小説やエッセイに非日常を求めているのかもしれません。

「馬券を買った」と噓をつくほうが
伊集院さんのためになるのでは?

 実はS君は、伊集院さんの原稿をもらう日は、いつも物凄く葛藤したそうです。買った馬券の種類は覚えていますから、どの程度当たったか、儲かったかはわかります。

「正直、毎回投資した分を回収したことはないんですよ。だから、いつも『馬券買いました』と報告だけして、現金をそのまま持っていたほうが、オカネを捨てることにならないから、よほど伊集院さんのためになる。毎回、本当に馬券を買おうか、やめようかと悩みましたが、そのお金を自分で競馬に使ってしまい、万馬券でも当たったら自分の人生がなくなってしまうと思って、我慢するのが大変でした。他社の担当者もみんなそれで悩んだようです」

 バクチ嫌いの私なら、絶対現金をそのまま家に持ち帰ったでしょう。