江戸の町の商人の習慣が
「年越しそば」に変化した説
振り返れば江戸の町の庶民にはそばが人気で、文政年間(1818~30年)には3000軒以上のそば屋が立ち並んでいたという。そして、月の末日にそばを食べる「晦日(みそか)そば」(あるいは「三十日そば」)という習慣が、江戸時代中期に商家の間で広まった。
当時の商家は「ツケ払い・月末締め」が基本であり、月末は集金や棚卸しで大忙し。主人が全員分の出前を頼んでもすぐ届き(ゆで時間が短い)、うどんと違って伸びにくく、かつスルッと食べられるそばはうってつけだったのだろう。「パッと食べて、締め日を乗り切ろう!」といったところか。
しかし時代がたつにつれて、晦日そばは衰退。特に大きな節目である大みそかだけが年越しそばとして残り、縁起担ぎの意味合いも込めて一般的に広まったとされている。
ただし、九州・博多で鎌倉時代に食べられていた「世直しそば」(細長い形状ではなく餅状に加工されていたもの)など、大みそかに縁起を担いでそばを食べる風習は他にもあったようで、要するに「諸説あり」だ。なお、江戸時代初期には、町の普請(整備)のために上方から移り住んだ人々の影響か、うどん店の方が多かったという説もある。