知的障害のある患者では自律と意思決定能力は非常に複雑で、アセスメントも困難である。これらの事例での意思決定能力審査は十分に厳格であるとは見えなかった。生まれてからずっと障害があった患者では、苦しみのアセスメントは特に困難である。時として短い期間内となりがちな、限られた回数の医師と患者の面談では、安楽死のような重大な意思決定には十分ではない可能性がある。オランダの安楽死相当注意基準は知的障害および/または自閉症スペクトラム障害のある患者には簡単に適用できるものではなく、適切なセーフガードとして機能しているとは見えない。

 しかし、オランダの安楽死制度では、事後的な審査が行われる段階では患者はすでに亡くなっており、医師の判断の正しさの検証は不可能であるとの理由から、医師の判断は不問とされている。

 オランダの「コーヒー事件」、ベルギーのティネ・ニースの訴訟での判決の趣旨からしても、合法化された国々の安楽死では、定められた手続きをよほど大きく逸脱しない限り、医師は法的責任を問われない。数々の規制でセーフガードが設けられているといわれる一方で、実施に当たってはこれほど多くが医師の専門性にゆだねられているのである。

 安楽死を合法化する際の論拠は「意思決定能力」がある人による「自己決定」が原則だったはずだが、もともと意思決定弱者を守るためにセーフガードとして設けられた要件がなし崩し的に緩和されていく一方で、このように本人の意思の確認や意思決定能力のアセスメントがおろそかにされていく実態を見ると、その論拠はすでに崩れているのではないだろうか。

なし崩し的な規制緩和によって
子どもへまで適用される安楽死

 もうひとつ、見過ごせないのは子どもへの安楽死の拡大だろう。ベルギーが2014年に子どもの安楽死を認め(ただし子どもの場合は終末期に限定)、オランダも追随することを決めた。カナダでも合法化当初から「子どもにも」という声はあり、議論はいよいよ具体化しそうな気配だ。ここでも「大人には認められているのに、同じように耐えがたい苦痛があっても子どもだというだけで認められないのは人権侵害」という論理が見られることを思えば、子どもへの安楽死もまたこれから世界の趨勢となっていくのかもしれない。