僕は、自分の個室からほとんど出ることなく、実績の上がらないメンバーを呼びつけては、「どうして数字が上がらないの?」と問い詰め、「こうしたらいいんじゃない?」などとアドバイスを押し付けたりしていました。お客さまを見てもいないのに、部下を問い詰めるなどやってはいけないことですよね。だけど、僕はこんな調子で、数字が上がらないのを、すべて部下のせいにしていたのです。
挙句の果てには、部門の数字が伸び悩んだときに、メンバーのやる気に「火」をつける努力をすることもなく、「しょうがない……俺がやるしかない」と考えた僕は、誰にも相談することなく勝手に営業活動に乗り出し、目標数字を達成しようとしたりもしました。
僕としては、「率先垂範」で現場を鼓舞するつもりでしたが、要するに、「俺はやっている!」とアピールするためのスタンドプレイにすぎませんでした。それに気づいてなかった僕は、きっと“ドヤ顔”をしていたんでしょう。現場を鼓舞するどころか、「勝手にやってくれ」と思われただけだったようです。
“拳骨”で殴られて気づいた「大切なこと」
「メリルリンチを日本一のプレゼンスに高めたい」
当時の僕は、こんな使命感を抱いていました。そして、その思いに嘘はなかったと今でも思っています。
ただ、その思いの奥底にあったのは、「ゴールドマンで結果を出していた俺が、君たちに営業を教えてやろう」という“上から目線”だった。それでは、メンバーから反感を買うのも当然の成り行きだったと思います。
そして、入社してほんの数ヵ月で決定的な出来事が起きます。
直属の上司から、僕は知らされていなかった「現場の情報」を教えられたのです。
つまり、部下は僕をスキップして、僕の上司に直接報告をしていたということ。肩で風を切る勢いで「俺についてこい!」とばかりに突っ走っていた僕でしたが、振り返ると誰一人ついてきていなかった。いや、要するに、ゴールドマンから“落下傘”で降りてきた僕は、みんなにとって“邪魔者”でしかなかった。その現実に気づけなかった僕がバカだったのです。
それにしても、これはキツかった。
まさに“拳骨”で殴られたような衝撃でした。
でも、それくらいの痛い思いをしなければ、僕は、自分の「真実の姿」に気づくことはできなかったでしょう。本当に恥ずかしいです。だけど、あのとき“殴ってもらえた”ことに感謝しなければならない、と今は思っています。そのおかげで、「大切なこと」に気づかせてもらったからです。
とはいえ、当時、未熟だった僕は、素直に謝罪することすらできませんでした。いや、本当のことを言えば、「どうしてわかってくれないんだ」と腹を立てていたんです。重ね重ね、恥じ入るばかりです。
「立花くん、今度、楽天野球団の社長をやらない?」
このように、僕はメリルリンチで「痛恨の失敗」をしました。
そして、僕は、自分で自分につけた「傷」の痛みに苦しみながらも、みんなと一緒に前澤友作さんに持ちかけて、株式会社ZOZOの東証マザーズから東証一部への市場変更を手掛けるなど結果を残すことで、メリルリンチにおける「立ち位置」もでき上がっていきました。ところが、そんななか、思わぬ形で「転機」は訪れました。
始まりは、一本の電話でした。
ある日、お世話になっている先輩から「美味しいものでも食べに行こうよ」と連絡が入ったのです。
僕は、軽い気持ちで出かけていったのですが、途中で楽天創業者の三木谷浩史さんと、東北楽天ゴールデンイーグルス球団社長の島田亨さんと合流。その展開に僕は少々驚きましたが、おふたりとはすでに面識があったので、打ち解けた雰囲気で会食はスタート。よもやま話で盛り上がりながら、お酒が進みました。そして、場が温まってきた頃、唐突に、三木谷さんがこうおっしゃったのです。
「立花くん、今度、楽天野球団の社長をやらない?」
これには面食らいました。
だって、現社長の島田さんが目の前にいらっしゃるんですよ? 下手なことを言ったら失礼になる。どう反応すればいいかわからないじゃないですか? 「いったい、何を言い出すんだ……弱ったな……」と思いながら、生返事でごまかすしかありませんでした。そして、このときは、それ以上深い話にはならないまま、会食はお開きとなったのです。
とんでもなく魅力的な「提案」
だけど、三木谷さんの提案はとてつもなく魅力的でした。
聞いた瞬間に「やりたい!」と前のめりになった、というのが正直なところです。
僕は以前から、三木谷さんや、サイバーエージェントを創業した藤田晋さんなど、一代で大きな成功を収めた人物を尊敬しており、いつか、そうした方々と仕事をしてみたいと考えていたからです。その三木谷さんご本人から、お声がけをいただいたのだから、前のめりになるのは当然のことでした。
また、僕は、野球経験こそありませんでしたが、子どもの頃から高校野球が大好きで、わざわざ東京の自宅から甲子園に観戦にいくほどでした。それに、スポーツをするのも大好きで、学生時代にはラグビーにとことん打ち込んでいました。
父や兄の影響でラグビーを始めたのは小学校2年生のとき。それ以降、ラグビーの面白さにはまり、成蹊高校在学時には高校日本の代表候補に選ばれ、慶應義塾大学のラグビー部では徹底的にしごき抜かれました。
さらに、ソロモンからゴールドマンに転職するときの「ガーデン・リーブ」(競合他社に転職するときに、3ヵ月ほどの期間、労務を免除したうえで給与を支給する代わりに、競業避止義務を負わせる外資系企業の慣行)を利用して、ラグビーの本場・イギリスに渡ってコーチングを学んだうえで、慶應ラグビー部のコーチに就任。1999年に学生日本一になるプロセスに立ち会ったこともあります。
そんな経験をしてきた僕にとって、球団社長としてスポーツに深くかかわることは、心の底からワクワクする魅力的な仕事だったのです。
千載一遇のチャンス
それに、冷静に考えれば、僕のキャリアにとっても重要な意味があります。
なにしろ、プロ野球の球団社長のポストは、日本に12個しかありません。
思い上がりの強い僕は、当時、「上場企業の社長だったら、むちゃくちゃ頑張ればなれるかも……」などという“甘い考え”をもっていましたが、12個しかないポストに就けるチャンスは、この機を逃したら二度と来ないと思いました。まさに、千載一遇のチャンスだったわけです。
だから、会食から1週間後、島田さんから改めて正式なオファーを頂戴したときに、僕に迷いはありませんでした。
聞けば、島田さんはシンガポールの楽天の拠点への赴任が決まっており、その後釜として僕に白羽の矢が立ったとのこと。ならば、何の憂いもありません。メリルリンチにスジを通すことを条件に、ありがたくオファーをお受けすることにしました。
このとき、島田さんは「立花さんが思うように、どんどんチャレンジしてください」と僕の背中を押してくださいました。ゼロから球団の経営基盤を築き上げてこられた島田さんに、そのようにおっしゃっていただけたのはもちろん嬉しかったのですが、それ以上に、重圧に身が引き締まるような思いでした。
そして、話はトントン拍子で進み、最初の会食からわずか2ヵ月余り、2012年8月1日付で楽天野球団社長に就任することが決定。まさに、「良いご縁」が、僕を新しい「道」に導いてくれたのです。