たびたびニュースを騒がせている「インフレ」。実は日本では実に40~50年ぶりであることをご存じだろうか(日本のバブル期には資産価格は上がったが、物価はほぼ上がらなかった)。インフレを経験として知っている人は少ない。そんななか、これから物価が上昇していく時代に突入しようとしている。
本連載では、ローレンス・サマーズ元米国財務長官が絶賛したインフレ解説書『僕たちはまだ、インフレのことを何も知らない』から、インフレの正体や投資への影響といった箇所を厳選して紹介する。
みなで高インフレ率を予想していたらどうなるか?
企業と労働者、政府と一般家庭、借り手と貸し手がみな、比較的高いインフレ率を予想し、その高いインフレ率が新たな「定常状態」となるような世界を想像することは可能だ。
実際、第二次世界大戦後の数十年間でそんな世界を生み出そうとし、今日の先進国ではとうてい受け入れられないインフレ率との共存を試みた国がある。ブラジルだ。
たとえば、1950年から1970年にかけて、ブラジルの卸売物価は年率30%上昇し、長期にわたって貨幣の破壊が進んだ。しかし、その一方で、実質国民所得も年率6.4%拡大した。
表面的に見ると、第二次世界大戦後の数十年間は、貨幣の面でブラジルにとって昏迷の時代だったといえる。1942年に導入された最初の通貨「クルゼイロ」は、あまりにも急速に価値を失っていったため、1967年、当初「新クルゼイロ」と呼ばれた通貨に置き換えられた。
1新クルゼイロの価値は、1000旧クルゼイロだった。それでも、どういうわけか、ブラジル経済は繁栄し続けた。少なくとも総計を見るかぎりは。
しかし、水面下では無数のひずみが生じていた。非常に高いインフレ率にともない、実質金利がどんどんマイナスに傾斜していった。事実上、ブラジル企業はお金をもらって、生産性や利益性がこれといって望めない投資に着手していたわけだ。
設備投資の量は多かったものの、将来的なリターンに期待できないことは目に見えていた。単純に、投資のハードルレート〔投資判断の際に上回らなければならない最低限の利回り〕が低すぎたのだ。
一方、「貨幣価値修正」と呼ばれる一連の物価スライド方式を通じて、インフレが制度化された。そして普通は、大きな政治的影響力を持つ人々ほど、大きなインフレの「見返り」を受け取った。所得格差の問題が深刻化した1つの背景はそこにあったのだ。
1970年代に入ってもなお、ブラジルの奇跡は順調に続いているように見えた。為替レートはたび重なる急落に見舞われたが(1974年だけで、米ドルに対して11回の切り下げが行われた)、特に他国で起きた石油関連の大混乱を踏まえれば、経済成長はきわめてよく持ちこたえていたといっていい。
実際、1970年代の国民所得の平均年間成長率は8.2%と、それまでより改善を見せた。インフレはいっそう加速していたが(卸売物価は年率約37%上昇した)、正直なところ誰がそんなことを気にするだろう? ブラジルの経済は、従来の経済的思考を180度覆してしまったように見えた。
しかし、ブラジルの運(実際、運だった)もそこまでだった。従来の経済学が再び牙を剥いたのだ。1970年代中盤以降、1973年の原油価格の高騰の影響で世界の産油国が蓄積したオイルマネーが、アメリカの銀行システムを経由してラテンアメリカにドッと流れ込んだ。
この石油収入の再利用により、少なくとも当時の基準で見れば驚くほど低金利の融資が容易に得られるようになった。
ブラジルの対外債務は急増したが、ブラジルに対する債権者たちの寛容な態度も、一時的なものにすぎなかった。1980年を迎えると、ブラジルの経常収支赤字が国民所得の9%へと近づき始める。
不幸にも、ポール・ボルカー率いるFedがアメリカ国内のインフレを抑制しようとした影響で、アメリカの金利が急上昇するなか、外部から必要な資金を調達するブラジルの能力は急速に衰えていった。つまり、どうにかして経常収支赤字を縮小する必要があった。それも、一刻も早く。
その結果、為替レートが急落した。不幸にも、すでに定着した賃金と物価のスライド方式のせいで、為替レートの下落(つまり輸入価格の上昇)は、国内インフレの急激な加速を促す一方だった。国内の賃金と物価の上昇騒ぎのなかで、待ち望まれた競争力の改善は雲散霧消した。
年間インフレ率は、1980年代初めにおよそ100%まで上昇したが、その後はいっそう勢いづき、80年代全体で見るとなんと平均300%にも達した。当然、2代目「クルゼイロ」通貨は「クルザード」に置き換えられ、そのクルザードも1989年には「新クルザード」に置き換えられた。
それでも、崩壊は止まらない。90年代、ブラジルのインフレ率は年間200%を記録する。その一方で、1人当たり所得はほとんど動かなかった。こうなるともはや、インフレ率の上昇を、生活水準の急激な向上に見合う対価だと言い張るのは強弁というものだった。