にもかかわらず「自分勝手」に思えてしまうのは、他のメンバーが「自己主張することはよくない」という規範を内面化しているからです。そこでは冒頭に述べた儀式のように、「自分には突出した意見はありません、みんなに合わせますよ」という雰囲気をその場の人たちがかもし出し、個々のちがいをあらわにせずに意見を一致させるのが理想とされているように思います。これは、お互いが率直に主張し、差異を理解したうえで、交渉によって合意形成する、というやり方とは逆です。

 もちろん、最終的に合意が形成されればどちらであってもかまわない、ともいえます。

 ただ、「『みんなに合わせます』とみんなが思うことによって合意に到達するやり方」は、そのプロセスに参加する人の同質性を前提しています。全員が暗黙のルールに従って儀式に参加するからこそうまくいくのであって、ひとりでも「わたしの意見はこうです!」とはっきりいう人がいると、その人の存在が合意形成プロセスにとって邪魔になると認識されてしまいます。そこに、「Eちゃんはわがまま」という否定的な評価が生じるわけです。これは、Eさんにとっては不当です。

異質な人=「わがまま」は
時代にふさわしくない

 グローバル化する現代社会では、日常的な場面で多様な文化を持つ人に出会う機会が増えており、暗黙のルールを共有しない人と協働していく必要性は高まっています。異質な人を「わがまま」という問題ある性質の持ち主として処理してしまうやり方は、そういう時代にふさわしいとはいえないでしょう。むしろ必要なのは、これまでの合意形成のやり方を見直し、多様性を持つメンバー間でもスムーズに意思決定ができるような開かれた方法を探っていくことだと思います。

 逆にいえば、「だれかが意見をいうのを待ってから自分の意見を決める」という態度を身につけていると、異文化に接触したときに苦労します。日本育ちの人で、海外の留学先で「あなたはどうしたい?」「あなたはどう思う?」と聞かれたときに答えられず、意見のない人だと思われ、どんどん不利な立場に追いやられて悔しい思いをした、と語る人は少なくありません。