「じさま仮病」説は
ただの深読み?

 話は変わりますが、最近は、「じさま仮病」説が有力と知って驚きました。小学校の授業でも、「じさまは本当に腹痛だったのか?」という問いで話し合い、「仮病」に意見がまとまったと聞くことがあります。豆太にモチモチの木の灯りを見せたかったから、じさまは病気のふりをしたというのです。

 いやいや、待って、と言いたくなります。たしかに、本当に腹痛だったのかどうかの決め手はありません。こういう問題について考える場合には、物語の中と外の両方から考える必要があります。

 まず、物語の外から考えてみましょう。つまり、語り手(ひいては作者)の立場から考えるのです。語り手が本当に「仮病」として読ませたいのならば、テキストにそのような「印」をつけておかなければなりません。もとより直接的に描くのではなく、さりげなく手がかりを示しておくのです。今の言葉で言うならば「匂わせ」ですね。そのような「印」を見つけて語り手の意図を読み取るのが、文学の読みなのです。

 私の見るところ、この作品にそのような指標は見つけられません。それでも「仮病」として読むことを「深読み」と言うのではないでしょうか。

 次に、物語の世界で考えましょう。山の夜は真っ暗闇です。提灯を持つことなく、数え年5才の幼い豆太は小屋を飛び出しています。これがどれほど危険な命がけの冒険なのか、暗闇を体験していない人は見落としてしまいがちです。

書影『大人もときめく国語教科書の名作ガイド』(東洋館出版社)『大人もときめく国語教科書の名作ガイド』(東洋館出版社)
山本茂喜 著

 今でも時々、昼間でもキャンプ場などで子どもが行方不明になる事故があります。ましてや真冬の真夜中の峠道です。一本道で麓の村に行ける保証はありません。昔の人はその危険をよくわかっていたことでしょう。たとえモチモチの木の祭りの夜だと言え、そのような危険な行動を愛する孫にさせるでしょうか。

 まずは素直に読むことが一番です。豆太がじさまを助けるためにどれだけ勇気ある行動を取ったのか、そこに目を向けるようにしたいものです。