「自民党と新進党の保守2大政党」の枠組みを阻むように民主党を結党したリーダーの1人が、自民党から政権を奪う。こんなはずではなかった。これはまさに「民主主義の誤作動」だ。

 あの時にそう感じた人たちは、決して少なくはなかったと思います。そうでなければ、当時小選挙区制が求めていたはずの「政権交代」という目的を果たした民主党政権が、過剰なほどのバッシングを受けるはずがないからです。

「悪夢の民主党政権」という言葉は、民主党が政権から転落して10年以上が過ぎた今も、執拗に繰り返されています。これほど繰り返されるのはなぜなのか。一体、誰にとって「悪夢の政権」だったのか。改めて考える必要もあるのではないでしょうか。

鳩山「最低でも県外」発言で
迷走した普天間基地移設問題

 政界全体の「民主党政権を歓迎しようとしない」空気を察することができれば、民主党政権はもっとうまい立ち回りができたのかもしれません。つまり「政権交代しても、自民党的なるもの、保守的なるものには大きく手をつけない『保守2大政党』の枠組みの中にいる限り」彼らはもっと歓迎されていたかもしれないのです。

 しかし民主党政権、特に鳩山政権は、その意味で「真逆」の道を取りました。その最大の案件が、米軍普天間飛行場移設問題でした。鳩山代表が衆院選の期間中に発言した「最低でも県外」は「政権交代しても外交・安全保障政策は変わらない」という、その根幹に手を突っ込むものでした。

 これだけの大きな案件を進めるには、非常に強い政治力が必要なことは間違いありません。政権運営の経験が乏しく未熟だった鳩山政権は、とてもこれだけの大きな案件をさばく力を持たず、迷走を重ねた末に、国民の支持を大きく失っていきました。

 外野の批判は言うに及ばずでしたが、政権の勢いが下降するとともに、民主党内の不協和音も顕在化しました。

 民主党はこの時点でかなりの「寄り合い所帯」となっていました。民主党は鳩山氏や菅直人氏ら、1996年結党の旧民主党時代からのリベラル系議員が政権や党の中枢を占めていましたが、一方で党内には、解党した新進党出身者との合流(98年)や自由党との合流(2003年)によって、保守系だったり、新自由主義的発想を持ったりしている政治家が、少なからず加わっていました。2000年代に入ると、保守系の政治家があえて民主党から出馬するケースも目立っていました。