元消防士が株式投資で築いた資産は、なんと8億円! 三重県在住の専業投資家・かんち。49歳で早期退職してからというもの、生活費のすべてを株の配当金でまかなっている。その配当金の総額は、なんと年間2000万円超え。高配当株と株主優待株を組み合わせた「買ったらほとんど売らない」という手間のかからない“ほったらかし投資術”は、初心者の新NISAにも参考になる。「その投資術を知りたい!」と、長年著作の刊行を期待されていたものの、すべて断ってきた投資歴40年のベテランが、初めて著した話題の書『ほったらかしで年間2000万円入ってくる 超★高配当株 投資入門』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものをお送りする。
すでに父が開いていた
証券口座
そんな私が、消防士として安いながらも安定した給与を得るようになったことで、「よし、オレも株をやってみよう」と思うのは自然な流れでした。
とりあえず地元にある東海証券(現・東海東京証券)で口座を開こうと店舗に出向いたところ、「もうすでに口座はありますよ」と言われました。
親父が、私の証券口座を開いていたんです。親父に聞いてみても、「あれ、そうだったっけか」と覚えていない様子でしたけどね。
何を買ったらいいか
親父に尋ねてみると
証券口座はあるものの、最初は何を買っていいかまったくわかりません。
そこで親父に「何を買ったらいいのかな?」と相談したところ、「おまえの安月給で買えるのは鉄鋼株くらいだろ」と言われたのです。
いまは株の売買が基本的に100株単位ですが、当時は1000株単位。株をやろうと思ったら、いま以上の元手が必要だったんですね。
“産業のコメ”に注目
そんななか、1985年後半~86年前半くらいは、鉄鋼各社の株価が軒並み低迷していました。
戦後までさかのぼると、第2次世界大戦が終わった後、日本政府がまず注力したのは鉄鋼業の振興でした。
日本が復興するためには、“産業のコメ”と呼ばれる鉄の存在が欠かせなかったからです(いまは半導体が“産業のコメ”と呼ばれて注目されていますね)。
高度経済成長から
オイルショックへ
そこで敗戦から間もない1947年には、限られたヒト・カネ・モノを鉄鋼・石炭産業に重点分配する「傾斜生産方式」で素材産業を復興させたことを足がかりに、自動車・造船・電機といった組み立て型の製造業を大きく発展させました。
これが日本の高度経済成長の大きな足がかりとなったのです。しかし、1970年代からしばらく、鉄鋼業は“冬の時代”へと突入しました。
1973年、第4次中東戦争が勃発したことから、石油産出国が原油価格の引き上げを表明。第1次オイルショックが発生し、中東からの石油輸入に頼っていた日本経済は大打撃を受けました。
70年代から80年代の
日本経済
1974年の消費者物価指数(CPI)は前年比で23%も跳ね上がり、「狂乱物価」と呼ばれ、鉄鋼業界も深刻なダメージを受けたのです。
また、1985年の「プラザ合意」の影響も大きかったです。プラザ合意とは1985年9月、日・米・英・仏・独の主要5か国(G5)の財務大臣・中央銀行総裁会議で発表された、日本の対米貿易黒字削減に向けた合意です。
当時の日本はイケイケで、とくに米国では輸出の減少と日本からの輸入の拡大にともなう貿易赤字が大きな問題となっていました。そこで、円高・ドル安を進めることで、米国の輸出競争力を高め、貿易赤字を減らそうというのが、この合意の狙いでした。