なおエピソードは、『カーネギー自伝』(アンドリュー・カーネギー著、坂西志保訳・中公文庫)に基づいている。

 カーネギーは1835年11月、スコットランドの田舎町で、手織工を営む家庭に生まれた。しかし時代は、産業革命のまっただ中だ。蒸気機関を動力にした織り機の普及により一家は収入を失い、困窮を極めることになる。そして織り機などを処分すると渡米を決意し、カーネギーも13歳で学校を辞め、両親とともに米ピッツバーグ対岸の街、アリゲニーに移住する。

 一家を支えるため、カーネギーはすぐに働き始める。最初の職場は紡績工場の糸巻き係で、週給1ドル20セントだ。この給与で毎日、朝は暗いうちから夜は暗くなっても働き続けた。その後、知人の経営する工場でボイラー火夫の仕事を経て、14歳で電報配達夫に転職する。週給2ドル50セントであった。

 そしてこの頃から、カーネギーの異常ともいえる努力が始まることになる。電報配達では必ず顧客の顔と名前を強烈に記憶し、特別感を演出してかわいがられた。さらに電信を音だけで文字起こしする、全米でも数名しか持たない技術を身につけると、17歳で通信技手になり月収は25ドルに跳ね上がる。

 運命の出会いは、18歳のときに訪れた。トマス・A・スコットという、彼の人生を大きく変えることになる人物の目に留まったのだ。スコットは当時、黎明期の鉄道業界にあって、ペンシルベニア鉄道会社の監督としてピッツバーグに来ていた。そこで電信技手として知り合ったカーネギーを引き抜くと、事務員兼電信技手に取り立てる。月収は35ドルにまで上がった。

 その後、スコットの出世とともにカーネギーも重い役職を任され続け、その全てで桁外れの努力を続け結果を出し続けることになる。

 後はもう、雪玉を転がすように大きくなっていく立身出世物語だ。稼いだお金をもとに、スコットとともに寝台列車事業に投資し、あるいは鉄鋼事業にも進出すると、「鉄鋼王」への道のりを一直線に突き進むことになる。余りにも長くなるので、これ以降のことは割愛したい。

 さて、この大富豪カーネギーの人生を最初に知った時、その異常な努力とリスクを恐れない行動力に驚いたのが、第一印象だった。そのため同氏が後年、78歳のときに著した自伝に興味を持つ。どれだけ努力をしたとか、成功の秘訣は苦労であるとか、きっとそういうことが具体的に書かれているのだろう――。しかしその予想は、完全に裏切られることになる。