そんな中、スコットはカーネギーから指令を受けた貨物主任の一人にこんな質問をする。

「小僧がなにをやらかしたか、君知ってるかい?」

「知りません」

「わしの名で、全線の列車を動かしていたんだ」

「それでうまくやったんですか」

「ああ、万事うまく運んだんだ」

 スコットはこの時、こう悟ったのだろう。カーネギーは、失敗した時の全責任を負う覚悟で危機に対処した。その上で、上手くいった時の手柄は全てスコットのものになるように振る舞っていたと。こんなかわいい部下を、どうして責めることができるだろう。もう一度いうが、失敗はすべて自分の責任、成功はすべて周囲の手柄、である。カーネギーがやがて、多くの人から信頼を得てトップリーダーに昇りつめたのも当然であったことが、よくわかるのではないだろうか。

トップリーダーは
評価に固執しない

 異常ともいえるような努力を重ねながら、成功は全て周囲のおかげと感謝し続ける人生。失敗の責任をとる覚悟を持ちながらも、評価は全て周囲に渡してしまうリーダー。

 彼のリーダーシップ哲学を端的に言うと、きっとそのようなものなのかもしれない。

 話は冒頭の、“理不尽なリーダー”についてだ。

「部下の成果を自分の手柄にしてしまう上司」

「このプロジェクトは俺が成功させたと吹聴するリーダー」

書影『なぜこんな人が上司なのか』『なぜこんな人が上司なのか』(新潮社)
桃野泰徳 著

 このような人はなぜ、優秀なリーダーになることができないのか。確かに、このような言動を憚(はばか)らない人の中にもまれに、それが事実である人もいる。しかし考えてもみてほしいのだが、自画自賛で自分の成果を誇る人の言葉をそのまま信じる人が、どれだけいるだろう。むしろ言えば言うだけ胡散臭くなり、逆効果というのが多くの人の自然な感性だ。

 であれば過去の仕事の成果など、部下や上司に気持ちよくくれてやることこそ2度美味しい、“投資”というものである。短期的で無意味な虚栄心を満たしたい欲求から逃れがたいことは本当によくわかるが、それは多くの場合、完全に逆効果になるのだから。

 加えて、仕事とは多くの場合、ボクシングや空手などのような1対1の“天下一武道会”ではない。腕力自慢の経営トップ1人と社員10人の組織よりも、10人の優秀な社員を気持ちよく働かせることができる経営トップ1人の方が強いのが、組織力というものだ。そしてそんな経営トップこそがいうまでもなく、本質的なリーダーである。