仕事がうまくいかない悪循環
そのときの私は、30代半ばでアメリカから味の素の伝統工場である当時の川崎工場に戻ることになりました。異国の地で苦労しながらも実績をあげ、同期のなかでも頭角を現しはじめたころで、私を呼んでくれた職場の課長職も私が心から敬愛する上司でした。
久々の日本の職場で、しかも味の素の主力の川崎工場で、なかでも当時は最大の陣容を誇るアミノ酸の製造課に係長として戻った私は、次期課長と目されていました。
ところが、そのアミノ酸の製造課は、実は問題だらけの職場だったのです。工学部出身で、こと製造に関しては合理的なアプローチでそれまで実績を上げてきた私は、目の当たりにする不都合な現実、トラブルの連続に的確に対応できないでいました。
併せて、久々の日本でのあらゆる非合理的な「ごちゃごちゃ」した状況にノイローゼ気味になり、若いのに耳が聞こえにくくなり、ストレスが原因の痛風も発症しました。1ヵ月間も杖をついて、バブル時にやっとの思いで買った中古マンションから2時間かけて通勤していたのです。
正直、心が折れそうでした。製造現場がトラブルだらけなのに、トラブルを修正するお金もなく、ベテランは自動化技術に弱く、中間層もいないので、極端に若年化した若手18~20歳くらいの課員を製造現場のオペレーターに起用していました。
若手は自動化技術は早く覚えられますが、オペレーションの原理原則や社会人としての総合的な訓練は未熟なため、結果として事故やオペレーションミスが絶えない職場だったのです。
それにもかかわらず、当時の川崎工場長は、「補修費半分」にこだわり、お金を一切出してくれませんでした。現場のポンプは壊れ、床は水浸し、おまけに塩酸を多用する職場で、計装機械は壊れ、ただでさえ中途半端な自動化は錆びて動かぬ自動化になってしまっていました。
結果、本来自動であるべきオペレーションが、いつもマニュアルに切り替えられ、切り替えミスも定常化し悪循環を起こしていました。
あるとき、会社の帰りに痛風で杖をついて駅までトロトロと歩いている私に、工場の別職場のベテランと若手2人が距離をとりながら追いついてきました。そして、私に聞こえないと思ったのか、2人が会話を始めました、「ああいう風にはなりたくないよな」。ショックでした。弱り目に祟り目で、覇気もなくだらしなく見えたのでしょう。