塩田写真はイメージです Photo:PIXTA

人間の生命維持に不可欠な「塩」。我が国では2001年まで政府による専売制が敷かれていた。その枠組の中で、政府が旧来の塩田を廃止し、塩の生産をイオン交換膜法に限るとしたのが1971年のこと。こうした動きへの反発から、1973年に「伯方の塩」「赤穂の天塩」などが登場。以来、「本当においしい塩とは?」をめぐって熱い塩論争が繰り返されてきた。※本稿は、澁川祐子『味なニッポン戦後史』(集英社インターナショナル)の一部を抜粋・編集したものです。

「伯方の塩」と「赤穂の天塩」の
誕生のカギはマクロビにあり

 興味深いことに、「伯方の塩」「赤穂の天塩」を世に送り出したキーパーソンは、ともに「マクロビオティック(マクロビ)」の実践者だった(編集部注/「伯方の塩」は、専売公社が輸入した天日塩を日本の海水に溶かして再結晶化させたもの。「赤穂の天塩」は、公社が輸入した天日塩に中国から輸入した塩田産のニガリを添加している)。

 マクロビとは、戦前の1930年代に桜沢如一が提唱した食養生法だ。白米や砂糖は避け、玄米を中心に野菜、海草、豆などを食べる穀菜食を実践する。化学肥料や添加物などを使わず、できるだけ自然に育てられた土地の作物を食べるのがモットーだ。

 そのキーパーソンの一人とは、日本自然塩普及会を率い、伯方塩業の創業に尽力した菅本フジ子である。

 伯方塩業の初代社長を務めた高岡正明の伝記『陽光桜 非戦の誓いを桜に託した、知られざる偉人の物語』(高橋玄著、集英社、2015年)によれば、桜沢からマクロビを学んだ菅本は「正しい食事は宇宙の秩序、人間のあるべき姿に通じる」と説いていたという。なお、高岡もまたマクロビの実践者だったことをつけ加えておく。

 もう一人は、赤穂の天塩の開発にかかわった谷克彦だ。その著書『塩 いのちは海から』(マルジュ社、1981年)の冒頭では、20代でマクロビに出会った経緯が綴られている。寝る間を惜しんで勉学に励んでいたとき、玄米食を試したのをきっかけに研究者として食生活改善に携わろうと決意したという。

 運動が始まった最初のうち、谷は菅本と志を同じくしていたが、途中から日本自然塩普及会と距離をおくようになった。そして1972年(昭和47)、学者らとともに伝統的な海塩の復活を目指して「食用塩調査会」(のちに日本食用塩研究会へ改称)を結成。研究を名目に伊豆大島の製塩試験場で、太陽や風の力だけで海水から塩をつくる完全天日製塩の試作に取り組んだ。

 その成果が、1980年(昭和55)から会員配布という形で流通することになった「海の精」(現在は海の精株式会社が製造)である。

 日本食用塩研究会発行の冊子『海の精を求めて 塩運動二〇年の歩みと今後の展望』(1990年)を読むと、自然塩運動にはマクロビの普及団体「日本CI協会」が最初から深くかかわっていたことがわかる。

 マクロビ実践者からすれば、国内でイオン交換膜法の塩しか手に入らないというのは、由々しき事態だったにちがいない。