ためしに、夏目漱石の『草枕』をみると「山路を登りながら、こう考えた」で始まる。

 ついで、すぐ有名な「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」が続く。もちろん、第一人称は出てこない。

 第2章のはじめを見ると「『おい』と声を掛けたが返事がない」から始まっている。

 声を掛けたのは“わたくし”だが、そうは書かない。それからずっと主人公の動きがのべられているのだが、主語はかくれて外にあらわれない。何ページも先になって、ようやくにして“余は”が出てくるのである。

 こういうことばを使い、こういう文体で文章を書いていると、自分のことを中心にしてものを書くのは不便である。日本で私小説というジャンルが、ほかの国よりも発達したのは、ひょっとすると、素面では書けないから小説の虚構をかりて自己を物語るのが好まれたのではなかろうか。

自作の詩歌を集めれば
立派な自分史になる

 そういえば、短歌や俳句にも、“わたくし”ということばは出てこないけれども、たいていは自分の思いをのべる。あるいは、ものに託し、花鳥風月をかりて、自分を表現する。

 このごろ、停年で勤めをやめた人が、記念に歌集をつくる。句集をつくる人はもっと多いようである。知友に配る。ほとんど第三者の読者はないが、出す人には何とも言えない誇らしい自己表現の晴れ場である。すくなからぬ費用を喜々として出すから、こういう自費出版を引き受ける出版社がふえてきているようである。

 ひとつひとつの歌や句は、そのときどきの気持をうたったものであるが、長い間にわたって作られた作品を集めれば、作者の精神史を反映するものであるのはたしかである。こういう記念句集、歌集は、その名はついていないが、りっぱな自分史である。