書影『人生の整理学 読まれる自分史を書く』『人生の整理学 読まれる自分史を書く』(イースト・プレス)
外山滋比古 著

 あからさまに自らを語るのは面映いが、作品を通してなら抵抗はすくない。

胃を切ると決めて霜月雨多し

 これはある企業の幹部だった人が引退に当って上梓した句集の一句である。同じことを散文で書くとすれば、ちがった感じのものになるのは当り前だが、これほどまでに読むものの心を打つものになったかどうかは疑問である。いくらか間接的な表現だからこそ、かえって人の心を打つのである。

 同じ句集にある、

めおとならむ離れて寒く砂利握るは

 という一句も、かなり前に読んだのだが、いまもって忘れることがない。それによって会ったこともない故人の人となりをしのぶよすがにしている。短詩型文学というのは後々も忘れられないという点で、ちょっと類がないように思われる。

誰しも気づかぬうちに
自分史を作って生きている

 考えてみれば、何も歌や句だけではない。長い間、書いたり、つくったりしたものは、どれも過去の自分をあらわすもので、それを集めれば、りっぱな自分史である。回顧文集というものが実際にはいくらも出ている。

 全集を見ると、その人が出した手紙がのっている。もちろん全部ではないが、それによって、その人となりが実によくわかる。文学の研究者が、書簡に注目するのは、手紙が人をよくあらわすからである。

 ただ一般では、もらった手紙は、保存することができるが、出した手紙を再び手もとへとり戻すことはほとんど不可能である。だいいち、だれに出したかも忘れている。

 しかし、もし、出した手紙を回収することができれば、そしてそれを編集することが可能ならば、それだけで、またとない自分史になる。ひとに出した手紙を返してもらうことはできないが、出す前にコピーしておくことはできる。

 そうという改まったタイトルで書いたものでなくとも、おのずから、自分史となっているものが、ほかにも、たくさんある。われわれのすることなすことは、そのまま、すべて自分史の材料でないものはない。

 このように考えると、われわれは、だれしも、それと気づかずに、自分史をつくって生きていることに気づくのである。

“わたくし”にいくらかはにかみを感じることの多い人間にも、この名のない、間接的自分史ならたくさんある。