【「光る君へ」を10倍楽しむ】岸谷五朗演じる紫式部の父は出世できない哀しい文人、平安社会で笑われた「博士の姿」とは山本淳子さん

 日本は、官僚制度を中国のそれに倣った。だが科挙は取り入れなかった。逆に日本は、まさに「親の七光り」ともいえるような制度を敷いた。その名も「蔭位(おんい)の制」。貴族の親を持つ子が親の位に応じて優遇される制度である。学力より血統。それが当時の日本の考え方だった。藤原道長の息子の頼通(よりみち)などは、蔭位の典型といえる。十二歳で元服(げんぷく)し、即座に五位の位を得て貴族となった。三年後には十五歳で三位(さんみ)に昇り、公卿(くぎょう)の仲間入りをした。この年で、現在でいう内閣閣僚の地位に就いたのだ。その後、彼は摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)を五十年以上務める。

 日本の朝廷にも、人材登用のための制度はあり、それが大学だった。人気が集中したのは、中国の歴史と文学を学ぶ「文章道(もんじょうどう)」だ。朝廷の文書はすべて漢文で記されており、漢学が官人として必須の知識だったからだ。だが高位の貴族のお坊ちゃまは、勉学に励まずとも親の縁故で出世できる。いきおい、大学で学ぶのはコネのない貧乏人ばかりとなった。「迫りたる大学の衆」。人々は大学の学生をこう呼んだ。「貧乏学生」ということだ。こうした非・学歴社会のなか、大学出身で大臣に昇った人物といえば、せいぜい菅原道真(すがわらのみちざね)が右大臣になった特例辺りしか見当たらない。